2012年10月16日火曜日

四万温泉と甘納豆


一週間前、久しぶりに泊りで温泉に行ってきた。
群馬県の「四万温泉」だ。

四万温泉は新潟県に近い山間にあって人気の温泉だ。
しかし交通の便がよくなく、群馬県出身でありながら行ったことがなかった。




群馬県四万温泉は山間の温泉地

「四万温泉」の由来は平安時代の中頃までさかのぼる。
清和源氏の3代目源頼光に仕え、頼光の四天王の一人だった碓氷貞光の伝説に由来する。
 (碓氷貞光といえば当時京の都を脅かしていた大江山(丹波)の酒呑童子退治で有名)

時は永延3年(989)頃、碓氷貞光が越後国(新潟)から上野国(群馬)へと向かう道中の山間で
野宿することとなり夜もすがら読経をしていた。
すると夜半の頃、童子が現れこう告げた。
汝が読経の誠心に感じて四万の病悩を治す霊泉を授ける。我はこの山の神霊なり。
貞光は夢うつつにこの神託を聞き、目を覚ますと温泉が湧き出ていたという。

貞光はこの温泉を「御夢想の湯」と呼び、この地を神託の「四万の病悩を治す霊泉」にちなみ
「四万の郷」と名付けたそうだ。

言い伝えはもう一つ。
桓武天皇の延暦年間(782~806)、征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が蝦夷討伐の際に
この地に立ち寄り入浴したとも言われている。

県の源泉台帳に登録されている四万温泉の源泉は42ヶ所。
平安時代からの湯は今も豊かに滾々と湧き出ている。

平安時代中頃開湯 「御夢想の湯」

湯宿を最初に開いたのは戦国時代、田村旅館の先祖田村甚五郎清政だそうだ。
甚五郎は岩櫃城主であった斉藤越前守に仕えていた。
永禄6年(1563)、この地が真田率いる武田軍に攻められ落城するが、
甚五郎は追っ手を防ぐためにこの四万の郷に留まり、そのまま土着し湯宿を開いたという。
江戸時代の「湯銭取立て帳」によると、徳川綱吉治世の天和(1681~1684)年間には
湯地場として親しまれ、江戸からも湯地客が来ていたことが記されているらしい。

群馬県立歴史博物館所蔵 「伊香保温泉繁栄之図」
天保3年(1832)吾妻四万村新湯之絵図
明治43年頃 賽陵館田村旅館


今回は、この四万温泉で「四万たむら」に泊まる。
元職場の同期組が就職してから50年経ったお祝をしようと集まった。
同期入社は30人、これまで亡くなった人が7人。
体の調子がよくないなどで今回出席できない人もいて、集まったのは18人だった。


1014日の日曜日、JR上野駅1200発の列車に乗った。

上野駅ホーム

乗車前に駅中の店で食事をと思ったが、せわしないので栗弁当を買った。
発車間際になって仲間の7人もやってきた。
週末の混雑を避けて出かけるグループもあるのか、思った以上に座席は埋まっていた。

列車は高崎線から吾妻線に入って、2時間余りで中之条駅に着いた。


中之条駅ホーム

駅前には店もなく、タクシーが数台客待ちしていた。

駅からは四万温泉行きのバスで向かう。
20分程待ってバスに乗った。
駅からほどなく山間の道となった。
途中で降りる人はいない。

バスが四万川沿いに走るようになると温泉旅館が目につくようになった。
温泉地らしい旅館街を通ってバスは40分程で終点に到着した。




旅館「四万たむら」は、バスの終点からスキー場の急斜面を思わせる坂の上にあった。
バスが到着すると、旅館の車が高齢者や足の悪い人をピストン輸送していた。

旅館「四万たむら」
バスの終点から急坂を登った先にある

旅館では、部屋に入る前にまず温泉と湯舟の説明があった。
それもそのはず、なかなか大きな温泉旅館で、風呂は7ヵ所もある。

部屋で着替えをすませて、まずは滝を見ながらの露天風呂につかった。
渓谷は紅葉にはまだ早く、木々は青々としていた。

露天風呂 「森のこだま」

露天風呂からは滝が間近に

川原の中に掘った露店風呂 幻の湯「竜宮」へ

大浴場「甍の湯」

元禄の湯で有名な「積善館」の渡り廊下


入社同期仲間は、毎年正月過ぎにレストランなどで新年会を開いている。
そして、これまでは5年ごとに温泉に皆で集まっている。
今回は四万温泉「たむら」だった。

夜は近況報告の後はお決まりのカラオケになった。
もうマージャンをする人はいなかった。
翌日のゴルフも今回は止めになった。

翌日は、
早めに帰る人たちと、温泉周辺の渓谷を散策してから帰る人たちに分かれた。

frogmanは、バス停の前の店で甘納豆と漬物を買って早めに帰ってきた。







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