2013年1月31日木曜日

神々の国ギリシャ そしてイタリア再び⑧ ~ポンペイ~



【6日目・その②】 2013年1月18日 =期待していたポンペイ遺跡とヴェスヴィオ山=


ヴェスヴィオ山
ポンペイへ向かう高速道路から
ポンペイに着いた。
遺跡を見学する前に、予定を変えて最初にカメオの工房に行くことになった。
トイレを使いたい人がいたのだろう。

我々は「今度の旅行では買い物はしない」と出発前に決めていた。
しかしギリシャで早くも破れ、ここでも相棒はアクセサリーを買っていた。

カメオは古代ギリシャから続く彫刻技術の装飾品である。
工房では90歳を超えるカメオ職人が作業していた。
手を見せてもらうと、ひび割れして変形していた。
この道70年だという。
相棒はこの手を見て感動し、カメオのアクセサリーを買ったのだと言っていた。
ツアーの面々も“高揚感”からか、結構買い物をしていた。


カメオ職人 ジュゼッペさん

70年彫り続けた手

カメオ

さて、いよいよ念願のポンペイだ。

ポンペイ遺跡は世界遺産である。
東西1km、南北800m程の城壁に囲まれた古代の「近代的」な街だった。
79年8月24日午後1時頃、ヴェスヴィオ火山噴火の火砕流で1748年に発見されるまで1700年もの間地下に眠っていた都市である。

ポンペイには紀元前9世紀頃に人が住み着き、その後交易の街として大いに栄えていた。
ポンペイの名前は、「発送する」という意味のギリシャ語「pempo」に由来するといわれている。
その他に、「pohn」「pehi」の2語による「石造りの祭壇の上」という意味だともあった。
ローマ帝国下の余暇地としても栄え、最盛期には2万の人口があったとされている。
古代の極めて文化的な都市だったのである。


遺跡には「マリーナ門」から入場した。
アプローチ道路に大きな水溜まりができていた。


ポンペイ遺跡の上空写真


ポンペイ遺跡の通りと区画
地区はⅠ~Ⅸの9つに分けられている

Ⅶ、Ⅷの辺りはこんな感じ
上部中央がフォロ

遺跡入口のゲートを入って右に進む。
写真を撮ろうとカメラを構えると動かない。
電池切れの表示が出ている。
昨夜は「いの一番」に備えてカメラの充電をしたはずだった。
こんなこともあるかなと予備のカメラを持ってきていた。
念には念を入れている。

「マリーナ門」のゲートの表示

ゲート前

ゲートを入ってすぐの光景
右上が「マリーナ門」

マリーナ門は石畳の坂道の先にあり、入口が2つあった。
左側の小さい方が人専用、右の大きい方は荷車や馬車が通ったそうだ。
かつてはこの近くまでが海で港があったようである。
交易のビジネスマンや物品が往来したのであろう。
79年の大噴火の後には海岸線は3km程も先になった。
噴火の火砕流の凄まじさを感じた。

マリーナ門を入ると、右手にヴィーナスの神殿、続いてバジリカがある。
バジリカは当時の法廷の役割を果たし、ポンペイで最も古い公共建築物だとか。
古くは屋内市場にも使われ、2階が法廷だったそうだ。
港に近いこの辺りでは取引の様々な側面を担っていたようである。

バジリカの向かいはアポロ(ギリシャ神話ではアポロン)神殿だ。
さらに坂を上ると大きな広場に出る。
ポンペイの宗教、政治、経済の中心地「フォロ」である。


フォロ
奥に見えるのがユピテル神殿

フォロの周囲には無数の円柱が建ち、古代には2階建ての柱廊がめぐらされていたという。
その原型は紀元前2世紀につくられ、フォロを中心にしたスタビア通りから西側(海に近い方)に街がつくられていったそうだ。
その後、街の発展と共に市街地が東側に広がっていった。
中心のフォロが極端に西側に寄っているのはそのためで、発展の大きさがうかがえる。
皇帝アウグストゥスの時代に広場への馬車や荷車の立ち入りは禁止されたそうだ。

アボンダンツァ通りの車止め
フォロへは人以外立ち入り禁止

広場の北側正面にはヴェスヴィオ山を背景にユピテル神殿が見える。
ユピテル神殿はポンペイ最大の神殿である。
ローマ神話の主神ユピテル、その妻ユーノー(最高位の女神)、ミネルヴァ(知恵と武勇の神)の
ローマ・カピトリーノ三柱神が祀られている。

フォロの周囲には公共の建築物や神殿があったそうだ。
南側にはバジリカに続いて役所が設けられていた。
東にはアボンダンツァ通りとの角にエウマキア館があった。

エウマキア館は羊毛職人組合の会館だったようだ。
織物はポンペイの主産業で、織物商、染物屋、洗濯屋、、、と分業されていた。
織物の陳列や保管、売買交渉に使われていたと推測されている。
碑文には次の内容が記されている。
「建物はアウグストゥスの融和と皇帝への忠誠を誓い、巫女エウマキアによって献納された」。
エウマキアは毛織物業で財を成し、後に織物産業の守護神のようになったのだとか。
建物奥にはエウマキアの像があったようだ(功労者の銅像のような?)
4箇所の壁の窪みにはカエサルを含めたユリウス家の人々の彫像があったという。

エウマキア館の北隣にはヴェスパシアヌス神殿、ラレス神殿と続く。
ヴェスパシアヌス神殿は皇帝(在位69~79年)の守護神に生贄を捧げるための神殿で、
大噴火時には未完成だったそうだ。
ラレス神殿は古代ローマの様々な場所の守護神ラレスを祀った神殿。
ラレスは人々の暮らしの中で親しく信仰されてきた氏神様のようなものだろうか。
家族の守護神ラレス・ファミリアレス、四つ辻の守護神ラレス・コンピタレス、
道路と旅人の守護神ラレス・ウィアレス、国家の守護神ラレス・プラエスティテスなど様々だ。

ラレス神殿の北隣の角地は公設市場である。


↓配置図はこんな感じ↓
市場の図面


広場に面したフロントには両替商が並んでいたそうだ。
交易の民たちは両替をして真ん中の入口から中に入ったのだろう。
中央には円形に12本の石脚が残っていた。
円錐形の屋根の建物では魚を洗ったり販売したそうだ。
中央には泉水があり常に低温に保たれており、床には大理石の排水溝があって汚水が下の下水管に流れる構造になっていたという。
南側は小さなブース状に区切られていて、一つ一つが商店になっていたようである。

北西の部分には屋根がかけられていた。
その壁面には今は色褪せてはいるが往時の「ポンペイレッド」を使った壁画が残っていた。

市場 北西部分
壁画は判然とはしないが神話の神や市場ならではの食料品が描かれていた(ように思う)。
一番はっきりしていたのは、2頭立ての馬車に乗った女神の壁画だ。
天空を馬車で駆けているのは暁の女神「アウロラ(ギリシャ神話ではエオス)」ではないか?
アウロラの姉は月の女神「ルナ(ギリシャ神話ではセレネ)」。
2人の女神は兄の太陽神ヘリオスとともに天空を馬車で駆け巡る。
月の女神ルナは太陽の兄の後を追う形で、夜が終わる暁には妹のアウロラに交代して太陽神を先駆するそうだ。
壁画は暁の女神が訪れる時刻に市場の人々が活動していたことを表しているのかと想像する。

漆黒の中に舞っているのは月の女神ルナかもしれない。
ルナはその光で漆黒の闇夜を照らしながら夜の世界を監視していたそうだ。
彼女のお陰で旅人は道に迷わず、夜間の安全が保たれたとされている。
市場だけに方々からの商人を「ご無事でいらっしゃいました」と迎える絵なのかも知れない。

ルナは豊穣と多産の女神ディアナと同一視されている。
一つの絵は、そのディアナ(ルナ)が獲物を手にした人を迎え入れているように見える。


上部はエウロラ?

エウロラが舞っているようだ

大きな翼の男神を支えているのはルナ?

豊穣と多産の女神ディアナが
狩りを終えたものを迎え入れているよう

上は魚が並んでいる?
下はパン?
この壁画の所には2体の石膏像があった。
火山灰に埋もれた人が残した空隙に石膏を流し込んだものだそうだ。
苦しみの表情には歯が残されており、頭骸骨も見えていた。
この遺骸はウエストにベルトを巻いているところから奴隷だったとされている。



ユピテル神殿の北側には通りをはさんで「フォロ浴場」がある。
遺跡内には他にもスタビアーネ浴場と中央浴場があり、いずれも通りが交差する角地にある。
フォロ浴場はフォロ通りとテルメ通りの角。
スタビアーネ浴場はスタビア通りとアボンダンツァ通りの角。
中央浴場はスタビア通りとノラ通りの角。
もう一つ、マリーナ門の外にスブルバーネ浴場もあるそうだ。

フォロ浴場は紀元前80年頃につくられたそうだ。
ポンペイの人々は午前中に仕事を終え、午後には浴場などで汗を流したのだとか。
この浴場は男女の施設が別々で男性用の施設が見学できるようになっている。
(女性の施設は小さい)
当時の浴場は浴室の他に運動場もあって、身体の鍛錬の後に浴室を使ったのだろう。


フォロ浴場
1)脱衣所 2)冷浴室 3)温(熱)浴室 4)温浴室
5)運動場 6)女性用施設
この浴場は決して広くはない。
しかも浴槽は冷浴室と温浴室に2ヵ所小さくあるだけである。
真ん中の温(熱)浴室には浴槽はなく、2重構造の壁と床の温風で浴室全体を暖めるという乾式の「サウナ」だったようである。
62年の大地震でその設備が壊れた後は巨大な青銅製の火鉢で部屋を暖めていたそうだ。
その火鉢が残っていた。
そこの壁面には男像柱で小さく区切られた窪みの棚が設けてあり、脱衣などを入れたそうだ。
どの部屋の壁面にも壁画や彩色が施されていたが華美なものではなかった。

フォロ浴場の温熱浴室(サウナ)
浴場が面するテルメ通りの辺りには居酒屋やパン屋の跡があった。
居酒屋は何軒もあり店にはカウンターが残っていた。
浴場を出た後の一杯を飲む客できっと賑わっていたのだろう。
当時は居酒屋への女性の立ち入りは禁止されており、男性だけの特権だったようだが、、、。

三叉路の辻にも居酒屋があって、その前には共同の水道があった。
ポンペイの街は前回ナポリの地下水道で登場したアクア・アウグスタの支流サルノ川から水を引き貯水槽から鉛管で水を供給していたそうである。
水道は街路が交叉する区画ごとに1つか2つ置かれていたようで、各水道口の石には異なる彫刻が施されていて街路の目印にもなったそうだ。
ここの彫刻は鳥だった。

共同水道と現地ガイドのジュゼッペさん
ジュゼッペさんの背後が居酒屋



当時のポンペイにはパン屋は30軒以上もあったそうだ。
大きな小麦の挽き臼や釜戸が残っていた。
当時も繁盛していたそうだが、今だったら超本格的なパン屋としてもてはやされそうである。

パン屋の釜戸

小麦の挽き臼
ノラ門の方へと当時の商店街を見て「ルパナーレ」に向かう。
ルパナーレとは売春宿のことであり、当時のポンペイには25軒もあったという。
その多くは居酒屋などを兼ねたものだったそうだ。
居酒屋のカウンターらしきものの前にも売春宿を示す看板役の置物があった。
専門の娼館は1軒で、大通りから入ったルパナーレ小径にある。
ポンペイの街にはいたる所に売春宿への道標があった。

真っ直ぐに伸びた商店街の大通り

ここは家?店?

カウンターの前に売春宿のサイン

壁にも道案内が

道路の敷石にも道案内が

売春宿の壁にはメニューの絵が



当時のポンペイでは家にもポルノまがいの壁画が多く描かれていたようだが、これは一種の魔除けの意味があるそうだ。

アボンダンツァ通りに出てフォロまで戻る。
アボンダンツァ通りも商業が発達した大通りだったそうだ。
通りではメジャーを使って調査している人や、歩道に腰掛けて食事をしているカップルもいた。
カップルの自由そうな雰囲気を少しうらやましく感じた。

こんな風に見学したい、、、

街の道路は歩道と車道に分かれており、車道は一段低くなっている。
車道の路面には大きな石が敷き詰められ蒲鉾状に中央から縁になだらかに傾斜している。
車道は下水路も兼ねていたようで、雨水や下水を両側に流す仕組みになっていた。
その路面の下の層には水はけのいい砂利や土が締め固められて路盤になっているらしい。
車道のあちこちには「飛び石」が置いてある。
これは人が通る横断歩道だそうだ。
馬車や荷車の車輪は飛び石の間をすり抜ける。
そこには轍がくっきりと残っていた。

歩道の縁石に凹みが、、
横断歩道(飛び石)へのステップになっていた

フォロに近づいたエウマキア館の南壁の手前辺りにまた共同の水道があった。
こちらの彫刻は「豊穣の女神」だそうだ。
水道には当時は蛇口はなく、常に水が流れていたそうである。
溢れた水は車道の清掃にもなっていたのだろう。

豊穣の女神の水道

最後はまたフォロに戻ってきた。
雲が切れてヴェスヴィオ山の頂が見えた。
記念写真を撮った。


遺跡の背景にヴェスヴィオ山

「イタリア紀行」の中でゲーテは、
「当時、遺跡近くに住む農民が、時折地下にもぐって美術品を掘り出しては売っていた」
と記している。
ゲーテがナポリを訪れたのは1787年2~3月である。
ポンペイの遺跡が発見された1748年から約40年後だった。
1787年にどのくらいの発掘が進んでいたのかは定かではないが、
ゲーテはナポリ滞在中に6度もポンペイを訪れ、3度もヴェスヴィオ山を登っている。
そして次のようにも言っている。

「正直に言えば、ナポリを立ち去ることは多少苦難であった。それはあの素晴らしい地方を後にしたからというよりは、むしろ絶頂から海の方へと流れている巨大な溶岩を見逃したからで、これまでしばしば書物で読んだり人に聞いたりしていた溶岩の状況を、精細に観察して自分の経験の中に採取すべきはずであったのに、私はそれをしなかったのである。」

「世界にはこれまでにいろいろな災禍が起こったが、後世の人々にこれほど喜びを与えたものは余り他に類がないだろう。こんな興味深いものはそう沢山はない。」

古代に起こった大噴火が古代の遺跡を残したことを喜びだといっているのだろうか。
ヴェスヴィオ山とポンペイに強く興味を持っていたことは事実であろう。


期待していたポンペイ見学もすぐに終わってしまった。
ヴィーナスのフレスコ画や秘儀荘の壁画、家屋に残る壁画などが見たかったが、
ツアーの予定には入っていなかったようだ。
フォロのあるⅦ区の辺りをスポット的に回っただけであった。
途中で見かけた自由なカップルが一層うらやましく感じた。
ナポリの街に続きここでも不満が残った。

遺跡から出て、ポンペイの記念品を買おうと近くのテントのお土産店に寄った。
ポンペイの素焼の小さなジオラマを見ていると、おじさんが出てきた。
「3ユーロ?」
「違う。13ユーロだ。」
「なに30ユーロもするのか?」
「違う。13ユーロだ。」と掌に13と書いた。
「3ユーロなら買うよ。」と言うと、今度はおばさんが出てきて「日本人か?」と聞く。
「そうだけど、13ユーロは高すぎだ。」と言って逃げ出してきた。


駐車場
アマルフィに向けて出発だ。
ここからは道路が狭くなる。
大型バスから2台のマイクロバスに乗り換えた。


:::ポンペイの絵手紙:::



<続く>



2013年1月30日水曜日

神々の国ギリシャ そしてイタリア再び⑦ ~ナポリ~


【6日目・その①】 2013年1月18日 =車窓のナポリとゲーテ=


「ナポリを見て死ね <Vedi Napoli e poi muori ! >」

古くからそう言い継がれてきたのだろう。
ゲーテもその言を借りている。
古代ローマの貴族たちも競って別荘を建てたほど風光明媚なナポリ。
「ナポリに行ってはじめて本物のイタリアに出会えた気がする、、、」。
そう言う人が珍しくない程に良くも悪くも「最もイタリアらしい」町なのだ。

前夜、マテーラを出てナポリに着いたのは午後8時を過ぎていた。
バスの中で寝ていたようだ。
気が付くとナポリ近郊の夜の高速道路を走っていた。
闇の中に多くの光だけが見えた。
どこの街にも見られる夜の光景だった。

ホテルにはポーターがいなかった。
スーツケースをフロント前に運びこみ、すぐさまレストランで夕食をとった。
荷物はフロントに置きっぱなしだった

ナポリタンが美味しい。
食事を済ませ、旅慣れた人たちは早々に部屋へと分かれていった。

名物「ナポリタン」
さすがに美味しい

部屋に入ると、まず真っ先にバスタブにお湯をためた。
これはツアー旅の知恵の1つになっている。
皆が一時にお風呂を使い始めるとお湯が出なくなる。
バスタブを使う人が多ければ尚更だ。
水しか出なくて温水になるのに夜中までかかったりするのだった。
お風呂の準備をしてからアルベロベッロとマテーラの絵手紙を描いた。


翌朝6日目の18日、朝食はバイキング方式だった。
ホテルには同じ旅行社の別のツアー客も泊まっていたようだった。

お風呂のお湯と同じように早いもの勝ちだ。
少し遅れて行ったら案の定、生ハムのプレートは空だった。
テーブルに戻って「また生存競争に負けてしまった」と一人言をいう。
しかし気が済まなかった。

厨房をのぞいてウェイトレスに「生ハムがない」と伝えた。
すると彼女は「私にはわからない」と返した。
責任者にでも話したのだろうか、ほどなく追加された。
相棒がすぐに取りに行ったが、また無くなっていた。
生ハム争奪レースは熾烈だった。
あきらめた。

生ハム競争に参加できず、、、。

朝食後は天気の様子を見るためにホテルの玄関に出てみることにしている。
旅のアルバム用にホテルの写真も撮っている。

ホテルのロビー

今日のナポリは雲が垂れ込めた灰色の天気だった。
バスは午前8時15分にホテルを出発した。

ナポリにいるというのに、、、「ナポリを訪れた!」という高揚感は全くなかった。
ナポリの街、しかも歴史地区辺りをバスで一巡りしただけだったからだ。
旅行会社はその理由を「ナポリは治安が悪いから」という。
多くのツアー客を安全に案内するには時間も手間もかかるのかもしれないが、
つまりはリスクとスケジュールの都合であろう。
せめてオプショナルツアーを用意したフリー時間が少しでも欲しかった。

地下鉄やタクシーを使って自分で街を楽しむのが好きである。
自分の足で見て歩くのは時間がかかるし危険もあるだろうが、同時に満足感や達成感が持てた。
ナポリではそれが全くできなかった。
今回バスを降りたのはナポリ湾の海岸だけだった。
写真を撮るほんの束の間であった。
あとは車窓からの見学であった。

もっとも、古来から人々が感嘆したナポリは「街中」だけでなく近郊の街や海や島も含めての
「ナポリ」なのだろうが、、、。
近郊の街に期待を込めるとしよう。


ナポリ海岸で。

ナポリ海岸で。
バスを降りた唯一の場所だった。
街歩きをしてみたかった、、、

朝のナポリ市内は通勤時間帯で混雑していた。
歴史地区(旧市街地)の公園では地下鉄工事をしていた。
そのためか、あちこちで一方通行や通行止めになっている。


ナポリの朝の通勤ラッシュ

地下鉄の工事現場

ナポリのドライバーは手馴れたもので、こうした道路を避けているのだろう。
バスは大した渋滞に巻き込まれることなく世界遺産の歴史地区を一巡した。

歴史地区では2000年前の造船所跡が見つかり、長い間地下鉄工事が中断していたという。
ナポリの起源は紀元前470年頃、ギリシャの殖民都市として街が起こる。
当時の名はネアポリス(Neapolis)。
その後も南イタリアの要所として様々に支配を受けてきた。
ローマやギリシャの都市と同じく、掘れば遺跡が出てくるのだろう。
ミラノの地下鉄は発達しているが、ローマやナポリはなかなか困難なようである。

ナポリの地下といえば古い地下水道網が張り巡らされているそうだ。
地下30~40m、古代ギリシャ・ローマ時代に造られ19世紀まで使われていたという。
ギリシャ人が建築材の石を掘り出した穴を発端に、
紀元前1世紀、初代ローマ帝国皇帝アウグストゥス時代には水道として使われ始めた。
水源はアペニン山脈で2000年以上も昔に100km程のアクア・アウグスタ(Aqua Augusta)を
つくりカンパーニャの地に水を供給していたのだから驚きだ。
現代ではナポリの地下道を巡るツアーもあるらしい。


ロバート・ハリス「ポンペイの4日間」より

そんなことに思いを巡らせながら、「車窓から」ナポリの街を眺めた。
王宮とプレビシート広場、ヌオーヴォ城、ウンベルト1世のガッレリア等。

これからポンペイへ向かう。
高速道路に入る手前に、以前から話題になっている大量の「ゴミの山」がそのままになっていた。
「ナポリはどうして高い評価を受けているのか」と相棒に聞かれた。
上手く答えられなかった。

ヌオーヴォ城

王宮とプレビシート広場

ウンベルト1世のガレリア



窓外に「ゴミの山」が広がる

ナポリ湾のヨットハーバー

ここに来る前にゲーテの「イタリア紀行」を読み返した。
ゲーテは1786年11月から1788年4月までイタリアの各地に滞在したそうだ。
ドイツ人のゲーテにとってもイタリアは憧れの地だった。
ナポリには1787年2月23日に到着、3月までこの地に居て大いに楽しんだようだ。
貴族からパーティーに招待されたり、ヴェスヴィオ山には何度も登っている。

ナポリの街を堪能できなかったので、ゲーテの言で補いたい。




「この晴れ渡った碧空の下では、どんなものも決して派手すぎるということはない。というのは、いかなる物も、太陽の光輝と海に映じた反射とを凌駕することがないからだ。」

「ナポリは楽園だ。人は皆、吾を忘れた一種の陶酔状態で暮らしている。私もやはり同様で、ほとんど自分というものがわからない。全く違った人間になったような気がする。」

「ローマにいると勉強したくなるが、ここではただ暮らしを楽しみたい。そして吾をもこの世をも忘れてしまう。」

「ここにいるとローマのことなど全く思い返してみる気にもなれぬ。」

「ナポリの詩人はこの地の景勝の地位をひどく誇張してうたっているが、それも無理からぬこと、、」

「私が何かを書こうとすると、豊饒な土地、自由な海、霞んだ島、煙る山の幻影が、いつも彷彿として眼前に浮かぶ。」
そして続ける。
「私にはこうした全てを表現するだけの器官が欠けている。」

満月の絶景については、「物語ることも描写することもできない」と言っている。
ナポリ人についても「善良で陽気」だと親しみを持って書いている。

次の部分は印象的である。
「このように絶えず動いている数え切れない群集の中を通るのは、全く珍しくもあり、癒されることでもある。皆が入り乱れて流れてゆくが、それでも各人各様の道や目的を発見するのだ。これほど大勢の人々と動揺の中にあって、初めて私は、本当に静かな孤独の気分を感じる。街が騒がしければ騒がしいほど、私の気持ちはますます落ち着くのである。」
感嘆の毎日の中で、異国にある旅人の心情を語っていて興味深く感じた。

「ナポリを見て死ね」とは、ナポリを見ずして「恋」も「人生」も「芸術」も、そして「死」をも語れないのだとの解説がある。
そこに「旅」を加えてみた。
ゲーテもきっとそんな思いを持ったのではないだろうか。


イタリアを旅するゲーテ


ポンペイに向かう高速道路からは雲が切れてソレント半島が望めた。
ソレント半島はティレニア海に小さく突き出し、北はナポリ湾、南はサレルノ湾だ。
ヴェスヴィオ山も頂上を見せてきた。
ポンペイまでは25キロ程、40分だった。




高速道路入口では検問が

ヴェスヴィオ山


<続く>