2013年1月30日水曜日

神々の国ギリシャ そしてイタリア再び⑦ ~ナポリ~


【6日目・その①】 2013年1月18日 =車窓のナポリとゲーテ=


「ナポリを見て死ね <Vedi Napoli e poi muori ! >」

古くからそう言い継がれてきたのだろう。
ゲーテもその言を借りている。
古代ローマの貴族たちも競って別荘を建てたほど風光明媚なナポリ。
「ナポリに行ってはじめて本物のイタリアに出会えた気がする、、、」。
そう言う人が珍しくない程に良くも悪くも「最もイタリアらしい」町なのだ。

前夜、マテーラを出てナポリに着いたのは午後8時を過ぎていた。
バスの中で寝ていたようだ。
気が付くとナポリ近郊の夜の高速道路を走っていた。
闇の中に多くの光だけが見えた。
どこの街にも見られる夜の光景だった。

ホテルにはポーターがいなかった。
スーツケースをフロント前に運びこみ、すぐさまレストランで夕食をとった。
荷物はフロントに置きっぱなしだった

ナポリタンが美味しい。
食事を済ませ、旅慣れた人たちは早々に部屋へと分かれていった。

名物「ナポリタン」
さすがに美味しい

部屋に入ると、まず真っ先にバスタブにお湯をためた。
これはツアー旅の知恵の1つになっている。
皆が一時にお風呂を使い始めるとお湯が出なくなる。
バスタブを使う人が多ければ尚更だ。
水しか出なくて温水になるのに夜中までかかったりするのだった。
お風呂の準備をしてからアルベロベッロとマテーラの絵手紙を描いた。


翌朝6日目の18日、朝食はバイキング方式だった。
ホテルには同じ旅行社の別のツアー客も泊まっていたようだった。

お風呂のお湯と同じように早いもの勝ちだ。
少し遅れて行ったら案の定、生ハムのプレートは空だった。
テーブルに戻って「また生存競争に負けてしまった」と一人言をいう。
しかし気が済まなかった。

厨房をのぞいてウェイトレスに「生ハムがない」と伝えた。
すると彼女は「私にはわからない」と返した。
責任者にでも話したのだろうか、ほどなく追加された。
相棒がすぐに取りに行ったが、また無くなっていた。
生ハム争奪レースは熾烈だった。
あきらめた。

生ハム競争に参加できず、、、。

朝食後は天気の様子を見るためにホテルの玄関に出てみることにしている。
旅のアルバム用にホテルの写真も撮っている。

ホテルのロビー

今日のナポリは雲が垂れ込めた灰色の天気だった。
バスは午前8時15分にホテルを出発した。

ナポリにいるというのに、、、「ナポリを訪れた!」という高揚感は全くなかった。
ナポリの街、しかも歴史地区辺りをバスで一巡りしただけだったからだ。
旅行会社はその理由を「ナポリは治安が悪いから」という。
多くのツアー客を安全に案内するには時間も手間もかかるのかもしれないが、
つまりはリスクとスケジュールの都合であろう。
せめてオプショナルツアーを用意したフリー時間が少しでも欲しかった。

地下鉄やタクシーを使って自分で街を楽しむのが好きである。
自分の足で見て歩くのは時間がかかるし危険もあるだろうが、同時に満足感や達成感が持てた。
ナポリではそれが全くできなかった。
今回バスを降りたのはナポリ湾の海岸だけだった。
写真を撮るほんの束の間であった。
あとは車窓からの見学であった。

もっとも、古来から人々が感嘆したナポリは「街中」だけでなく近郊の街や海や島も含めての
「ナポリ」なのだろうが、、、。
近郊の街に期待を込めるとしよう。


ナポリ海岸で。

ナポリ海岸で。
バスを降りた唯一の場所だった。
街歩きをしてみたかった、、、

朝のナポリ市内は通勤時間帯で混雑していた。
歴史地区(旧市街地)の公園では地下鉄工事をしていた。
そのためか、あちこちで一方通行や通行止めになっている。


ナポリの朝の通勤ラッシュ

地下鉄の工事現場

ナポリのドライバーは手馴れたもので、こうした道路を避けているのだろう。
バスは大した渋滞に巻き込まれることなく世界遺産の歴史地区を一巡した。

歴史地区では2000年前の造船所跡が見つかり、長い間地下鉄工事が中断していたという。
ナポリの起源は紀元前470年頃、ギリシャの殖民都市として街が起こる。
当時の名はネアポリス(Neapolis)。
その後も南イタリアの要所として様々に支配を受けてきた。
ローマやギリシャの都市と同じく、掘れば遺跡が出てくるのだろう。
ミラノの地下鉄は発達しているが、ローマやナポリはなかなか困難なようである。

ナポリの地下といえば古い地下水道網が張り巡らされているそうだ。
地下30~40m、古代ギリシャ・ローマ時代に造られ19世紀まで使われていたという。
ギリシャ人が建築材の石を掘り出した穴を発端に、
紀元前1世紀、初代ローマ帝国皇帝アウグストゥス時代には水道として使われ始めた。
水源はアペニン山脈で2000年以上も昔に100km程のアクア・アウグスタ(Aqua Augusta)を
つくりカンパーニャの地に水を供給していたのだから驚きだ。
現代ではナポリの地下道を巡るツアーもあるらしい。


ロバート・ハリス「ポンペイの4日間」より

そんなことに思いを巡らせながら、「車窓から」ナポリの街を眺めた。
王宮とプレビシート広場、ヌオーヴォ城、ウンベルト1世のガッレリア等。

これからポンペイへ向かう。
高速道路に入る手前に、以前から話題になっている大量の「ゴミの山」がそのままになっていた。
「ナポリはどうして高い評価を受けているのか」と相棒に聞かれた。
上手く答えられなかった。

ヌオーヴォ城

王宮とプレビシート広場

ウンベルト1世のガレリア



窓外に「ゴミの山」が広がる

ナポリ湾のヨットハーバー

ここに来る前にゲーテの「イタリア紀行」を読み返した。
ゲーテは1786年11月から1788年4月までイタリアの各地に滞在したそうだ。
ドイツ人のゲーテにとってもイタリアは憧れの地だった。
ナポリには1787年2月23日に到着、3月までこの地に居て大いに楽しんだようだ。
貴族からパーティーに招待されたり、ヴェスヴィオ山には何度も登っている。

ナポリの街を堪能できなかったので、ゲーテの言で補いたい。




「この晴れ渡った碧空の下では、どんなものも決して派手すぎるということはない。というのは、いかなる物も、太陽の光輝と海に映じた反射とを凌駕することがないからだ。」

「ナポリは楽園だ。人は皆、吾を忘れた一種の陶酔状態で暮らしている。私もやはり同様で、ほとんど自分というものがわからない。全く違った人間になったような気がする。」

「ローマにいると勉強したくなるが、ここではただ暮らしを楽しみたい。そして吾をもこの世をも忘れてしまう。」

「ここにいるとローマのことなど全く思い返してみる気にもなれぬ。」

「ナポリの詩人はこの地の景勝の地位をひどく誇張してうたっているが、それも無理からぬこと、、」

「私が何かを書こうとすると、豊饒な土地、自由な海、霞んだ島、煙る山の幻影が、いつも彷彿として眼前に浮かぶ。」
そして続ける。
「私にはこうした全てを表現するだけの器官が欠けている。」

満月の絶景については、「物語ることも描写することもできない」と言っている。
ナポリ人についても「善良で陽気」だと親しみを持って書いている。

次の部分は印象的である。
「このように絶えず動いている数え切れない群集の中を通るのは、全く珍しくもあり、癒されることでもある。皆が入り乱れて流れてゆくが、それでも各人各様の道や目的を発見するのだ。これほど大勢の人々と動揺の中にあって、初めて私は、本当に静かな孤独の気分を感じる。街が騒がしければ騒がしいほど、私の気持ちはますます落ち着くのである。」
感嘆の毎日の中で、異国にある旅人の心情を語っていて興味深く感じた。

「ナポリを見て死ね」とは、ナポリを見ずして「恋」も「人生」も「芸術」も、そして「死」をも語れないのだとの解説がある。
そこに「旅」を加えてみた。
ゲーテもきっとそんな思いを持ったのではないだろうか。


イタリアを旅するゲーテ


ポンペイに向かう高速道路からは雲が切れてソレント半島が望めた。
ソレント半島はティレニア海に小さく突き出し、北はナポリ湾、南はサレルノ湾だ。
ヴェスヴィオ山も頂上を見せてきた。
ポンペイまでは25キロ程、40分だった。




高速道路入口では検問が

ヴェスヴィオ山


<続く>



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