2013年1月30日水曜日

神々の国ギリシャ そしてイタリア再び⑥ ~アルベロベッロとマテーラ~


【5日目】 2013年1月17日 =「トゥルッリ」の街と洞窟住居「サッシ」の街=


1泊の船旅だった。

フェリーはイタリアのバーリに着いた。
下船して大地を踏むとほっとする。
乗船客は迎えのバスに移って埠頭を離れていく。

ナポリから観光バスが迎えに来ていた。
イタリア人の運転手はギリシャ人と違って陽気だ。

ギリシャでのエピソード。
見学が予定より早く終わり全員がバスに戻った。
添乗員がバスの窓ガラス越しに運転手を呼んだが、
「約束の時間ではない」と添乗員にクレームを付けていたのを目撃した。
万事このような調子で融通が利かず頑としていた。
何だかチップを渡す気になれなかった。

フェリーから続々と下船する車。
フェリーが吐き出しているかのよう。

バスからバーリ港を見る

今日は、バーリ→アルベロベッロ→マテーラ→ナポリ(泊)と進む予定だ。





バーリ港に着いた時は薄日が射していた。
冬の天気は変わりやすく、アルベロベッロに到着する頃には雨になっていた。
途中の畑の中にとんがり屋根の小屋が崩れかかったまま農作業用に使われていた。
見るからに観光地らしい新しいものもあった。

畑の中のとんがり屋根

バスを降りて見学する時、傘をスーツケースに忘れたのか手元になかった。
添乗員がバスの運転手から傘を借りてくれた。
見学が終わって返す時に、お礼に日本から持ってきた「針なしホッチキス」をあげた。
運転手よりも添乗員が喜んでいた。

雨の中のアルベロベッロ散策

小雨の中でアルベロベッロの見学がはじまった。

街外れの駐車場から少し歩くと「トゥルッリ」が姿を現した。
円錐形の石積みの屋根と白い壁の家だ。
単数形は「トゥルッロ」というそう。
童話の世界に迷い込んだような街並は世界遺産である。
静かな住宅街だった。
きっと夏の真っ青な空が似合うのだろう。(↓こんなイメージ↓)




アルベロベッロ(Alberobello)は「美しい木」という意味らしい。
この土地の中世の名はラテン語「Sylva arboris belli」、「戦いの木の森」だそう。
ノルマン王朝時代(1066~1154年)に最古の記述が残っているという。

11世紀の南イタリアはノルマン人による征服が始まっている。
事の起こりは11世紀初期、プーリアの有力者たちがガルガノの地でノルマンの騎士と出会い、
一つの話を持ちかけた。
「プーリアの地をビザンチン支配とイスラムの脅威から救い、後にこの地を治めないか」と。

中世の地中海世界はイスラム勢(サラセン人)の海賊行為や侵略が横行していた。
その行為は何百年も続いており、11世紀のシチリアはイスラムの支配下になっていた。
当時のプーリアはビザンチン帝国支配下であったが、東の脅威から領地を守ることに必死で
地中海世界の南イタリアにまで手が回らず何の対抗策も講じなかった。
イスラム勢への自治防衛としてイタリアの海岸線には多数の「サラセンの塔」が建てられ
今も残っている。
海上からの襲撃を見張り、少しでも逃げる時間を稼ぐのが精一杯だったそうだ。

このような緊迫に始終晒され南イタリアは疲弊していた。
そこでノルマンの騎士に提案を持ちかけたのである。
11世紀半ばにはノルマン人による南イタリアの制覇が一段完了しノルマン人の統治が始まった。

アルベロベッロはアドリア海の海岸から20キロ程しか離れていない。
ビザンチン帝国やイスラムとの戦いの舞台になったのかもしれない。
もっとも15世紀頃までは森林だったようだが、、、。
近年の研究では「Silva Alborelli」という山の名前であって、戦争は関係ないというのが
主流のようだ。
実際にオークの木が生い茂る森だったそうだ。

アルベロベッロの街の歴史は14~15世紀に始まる。
当時はナポリ王国の統治下で、スペインのアラゴン王家が支配していた。
領内の土地を開拓し入植するには王の許可と納税の義務が課された。

この辺りの領主(地主)はアックアヴィーヴァ伯爵家であった。
未開の地アルベロベッロの開拓を始めるが王家に従うつもりはない。
つまり、入植の許可も納税もなしの秘策を考える。
農民を開拓と移住で集めるが、その住居はいつでも壊せる(解体できる)小屋のようなものに
限定させた。
視察が来る時には家を解体し、農民をどこかに追いやっておく。
そうして義務を逃れていたのである。
この農民の住居がトゥルッリの原型である。

農耕の民なのに何だか遊牧民族のような不安定さではないか。
そういえばモンゴルのゲルに形も似ている、、、。

農民を疲弊させるアックアヴィーヴァの悪政も1797年に終わる。
当時の支配はブルボン王家に変わっている。
プーリアを訪れたブルボンの王フェルディナンド4世に住民が直訴した。
以後、アルベロベッロは王の直轄地となり、
壊さなくていいトゥルッリやモルタルを使った建築物ができるようになった。

トゥルッリ地区は2つある。
土産物屋が立ち並ぶモンティ地区と人々が暮らすアイア・ピッコラ地区。
今も1000を超えるトゥルッリがあるそうだ。
夏には観光客で賑わう街も真冬の今は静かだった。

トゥルッリの街を現地ガイドについて歩いて行く。
ガイドは、「日本の白川郷に行ったことがある」と話していた。
白川郷とアルベロベッロは姉妹都市だ。

1軒のトゥルッリの軒先に入り説明を始めた。
トゥルッリの構造を描いたA4の用紙を用意していたが、小さくて雑な手描きだった。
早口でどんどん説明していく。
冬の雨の中のこと、寒いのだろうか、、、。
先を急ぐような説明に熱意は全く感じられなかった。
もっとも一目見れば大方理解できるものだが、現地ならではの“ネタ”もなく残念だった。


寒いからか、
急ぎ調子で説明する現地ガイド

アルベロベッロ モンティ地区
撮影スポットより眺める

ということで、さらにトゥルッリについて少し付け加えることにする。

トゥルッロは「部屋一つ、屋根一つ」という意味らしい。
もともとは中近東辺りからきた形だともいうが定かではない。
白い外壁は毎年の春に塗り直す条例が出るそうだ。
そうして世界遺産の美観を保っているのだろう。

外壁と内壁の間には砂や石がつまっており、雨水はここを抜けて濾過され使用される。
白い壁は真夏の強い日差しをブロックし、内部はひんやりしているのだとか。
南欧には白い街がたくさんある。
土地の気候に合わせた住居の知恵がここにもあった。

さて、観光に戻ろう。
メインストリートは観光のシーズンオフでお土産店もほとんど扉を閉めていた。
雨降りで寒い天気のせいかもしれない。
現地ガイドは10分程で説明を終わり、後は1軒の土産物屋へ直行した。
ガイドの知り合いの店なのだろう。
主人と奥さん2人だけの小さな店で、品揃えも多くはなかった。
アルベロベッロのジオラマ、相棒はナフキンなどの雑貨を買っていた。

店に寄る目的の一つに「トイレを借りる」というのがある。

ここで用をたせということだった。
店のトイレは1つしかなく男女共用。
順番が来るまでに1時間も待った。

トイレを待つ間に切手を探した。
近くのタバコ屋に行ったが置いてなかった。
店に戻って主人に聞いてみるが言葉が通じない。
添乗員に仲介してもらった。
やはりないのだろう。
添乗員はタバコ屋に買いに行ってくれたようだ。
暫くすると、「ない」と戻ってきた。(当然だったけれど厚意には感謝)
バスに戻る途中で少し眩暈がしたと相棒に話した。


アルベロベッロのメインストリート
冬はシーズンオフ

マテーラに向かう。
こちらも世界遺産「洞窟住居」の街だ。
1時間程で到着した。

昼食の予約は1時45分とある。
レストランに入ったのは2時を過ぎていた。
予約の時間をオーバーしていたからだろう、食事が終らないうちから片付けられてしまう。
落ち着かない食事だった。
時間が押しているので仕方なかったのだろう。
相棒は以前にもこんなことがあったと言っていた。


昼食のソーセージも
慌ただしく、、、

レストランは洞窟住居地域にあった。

店を出て周りの洞窟住居を一通り観察した。
一軒一軒の作りや大きさが違う。
外壁も褪せ具合によって違う色になっている。


マテーラの洞窟住居
レストランの玄関前から

方角を変えて

マテーラについては全く知識がなかった。
洞窟住居を「サッソ」、住居群を複数形の「サッシ」という。
「サッソ」は「岩・岩壁」を意味する。
マテーラのサッソ地区は3つ。
中心の「チビタ」、「サッソ・カヴェオーソ」、「サッソ・バリサーノ」とある。
「サッシについて前もって調べておくべきだった」と反省した。

マテーラの歴史は相当古い。
グラヴィナ渓谷の向かい側ではムルジュッキアという旧石器時代の集落跡が発見されている。
マテーラ(Matera)の名前の由来も紀元前3世紀頃のギリシャ殖民都市にあるそうだ。
ターラント湾沿岸の「Metapontum」と「Heraclea」の住民がこの地に流れ着いたとある。
この2つの頭部分を合成して「Matera」となったとか。



8世紀にはイスラム勢の侵略から逃れてキリスト教の修道僧が住み着いた。
新石器時代からあったという洞窟を住居や聖堂にしたという。
聖堂の壁にはビザンチン様式のフレスコ画が描かれたとか。
洞窟の数は130にもなったそうだ。
その後洞窟の周りに農民が移り住むようになり街へと発展していった。

ゴート族、ロンゴバルト族、ビザンチン帝国、スペイン(ナポリ王国)、、、と支配者が変わる中で
破壊と再建を繰り返してきたそうだ。
16世紀のナポリ王国下では農業と商業が発展し、人口が7000人から12000人に急増したという。
ここに経済格差が生まれたそうだ。

富める人は高台に住み、貧しいものが洞窟住居に残った。
洞窟住居は整備も開発もされないままに取り残されていった。
そして、「イタリアで最も貧しい都市」と呼ばれるようになる。
マテーラ近郊の村に流刑になっていたカウロ・レーヴィによる「キリストはエボリに止りぬ」に
貧しい生活の現状が書かれている。



人口の急増は洞窟住居の居住環境を悪化させることとなった。
畜舎として使っていた採光も水環境も劣悪な洞窟を住居とせざるを得なくなったのだ。
家畜と一緒の洞窟もあり、衛生状態は極度に悪化し、乳幼児の死亡率は50%に達したという。
1950年、政府は居住を禁止し、サッシ地区の住民を強制的に移住させた。
ここに洞窟住居は廃墟となって放置された。

その後、洞窟住居の特異な景観や歴史的価値が見直され、1993年世界遺産に登録された。
現在も政府が復興を続けている。
サッシ地区の3割近くが修復を終え、博物館、土産屋、レストラン、ホテル等に使われていた。


独特の趣、サッシ地区

まだまだ修復途上のサッシ

洞窟住居「サッソ」内

サッソ内
当時のまま

1 時間ほど見学して歩く。
農家が使っていた住居(サッソ)を見学した。
当時の農作業の道具や生活用品が展示されていた。

全体を見渡せる岩場のテラスに出た。
映画のロケ地になったという。
夕闇がせまり、電気が点灯し始めた。
見ていて飽きなかった。
少し滞在して絵を描いていたいと思った。


灯りが点り始めた街

マテーラの中心街

今夜の宿泊地ナポリまで270キロを移動する。
ギリシャからのフェリーが遅れたために到着がずいぶんと遅くなった。



:::今日の絵手紙(アルベロベッロ、マテーラ):::





<続く>



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