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2014年1月8日水曜日

シンガポールへ再び④ ~天空のプール~


2日目】20131218

=シンガポールの朝=

朝6時前に目が覚めていた。
自動開閉式のカーテンを開けると、目の前にはシンガポール湾が拡がっていた。
大型コンテナ船が明けやらぬ海に灯りを付けて停泊していた。
熱帯の朝の空気は霞がかかってぼんやりしているが、海が近いので空気は澄んでいた。

ベットの上で本を読んでいた孫娘が窓の外を指して「ああ朝日がきれい」と叫ぶように言った
見ると数々の船のさらに沖合の雲の切れから朱色の太陽が昇り始めていた。


部屋からのシンガポール湾の眺め

美しい朝日が。
雨季には珍しく、この日だけだった。

ホテルの窓は東向きに開けていたことがわかった。
朝日が見られたのは、5日の滞在でこの日だけだった。

朝食を食べにショッピングモールの端にあるフードコートに出かけた。
まだ朝の7時過ぎ。
流石にパン屋とかコーヒーショップしか開いていなかった。
客は観光客か地元で働くたちなのかわからない。
フードコートも一部しか開いていなかった。
混雑しているには広く見えたコートは、薄暗く狭く感じた。
結局韓国風のうどんのような麺を注文した。
客も少なく、明りも少なく、この日回しか利用しなかった。


朝のショッピングモール
準備中のように薄暗くて、
昨夜のきらびやかな喧騒が嘘のよう。

フードコートも開いている店はまばら

フォーに似た麺料理

=朝のプール(下調べのために)=


部屋に戻ると、「天空のプール」の下調べに行こうと女房が提案した。
早速行ってみることにした。
チェックインの時にプールに入れる人数を息子に確認してもらったら、
係員が指を4本立てて「宿泊者を含めてfour」と言っていた。
それでルームキーを4枚寄越したのだと理解した。
すると7人全員は入れないことになる。
それで様子を下見してこよう、ということになったのだ。

ホテルのカード3枚をそれぞれが持って出た。
天空のプールは最上階の57階だ。
行くには、一度1階まで降りて別のエレベターに乗り換えて昇る。
後からわかったが、34階まで昇って別のエレベターに乗り換える方法もあった

プールのゲトでルームキーを見せて入った。
係員は、いちいち全員が見せなくてもいいよというような顔をしていた。

「夢にまでみた天空のプール」が目の前にひらけた。
シンガポールの高層ビルが一望できる眺めだ。
プールサイドには、所々にヤシの木が植えられ、その間にチェアーが規則的に並んでいる。
プールの落ち込みがどうなっているのか見ようと端に行ってみる。
ガラスで囲われたこども用の遊び場になっていた。


朝のプール
思わず「おおーっ」と声が出る

ゲート方面、左がプール
まだ人が少なくて静かだった

プールの入場は宿泊者だとわかればルームキーを1人1人見ることもなかった。
これで家族全員が気兼ねなく入場出来るとわかって安心した。
早い時間だったので利用する人の姿も少なかった

部屋に戻っていると、ママと長男孫と上孫娘の3人がやってきた。
シンガポールの学校は、2~3か月に一度休みがある。

今回も12月17日から年明けの1月6日まで休みだった
そのにも、1月末から2月初旬では中国の旧正月・春節の休みがあるという。


=「天空のプール」=


10時半に息子も揃ったところで「いざプールへ」。
長男孫の提案で34階へ行き、乗り換えて裏側にあるエレベターで57階まで上った。
4枚のキーカードで7人が入場できた。

プールサイドで大きなバスタオルを貸してくれた。
タオルを持って、場所取りにうろうろしてしまった。
朝方は人が少なかったのに、結構混雑してきていた。
家族揃った7人の空きを探すことはできなかった。

雨季もあって気温は30度以下のようだ。
プールの水は冷たく感じた。
プールとは反対側のに温水のジャグジーがある。
こちらは人気が高く特に小さな子供を連れたお年寄りに人気だった。

海側の風景がみえる。
プールは縦長に出来ていて、泳ごうと思えば泳げる。

が、泳いでる人はいなかった。
皆が幅の狭いプールを横切っていく。
高層ビルを覗きこむようにして写真を撮る人ばかりだ。
この眺望が何よりの楽しみなのだろう。
それほど「天空のプール」は気持ちが晴れ晴れする。


皆揃ってプールへ

こんな風景がひろがる



プールサイドの長男孫をみると、

東ヨーロッパ系のお年寄りプールから上がるのを手助けしていた。
「楽に上がれる階段が脇にある」と教えていた。
するとお年寄りが今度は「写真を何枚でもいいから取ってくれ」といってきたようだ。
お年寄りはプールに戻って、奥さんとハグしながら得意そうポーズをとっていた。
長男は苦笑いしながらシャッターを押していた。



2時間近くゆっくりと遊んだ。



絵手紙、天空のプール

旧正月に年賀として送る予定

=遅めの昼食=

お腹もすいたので昼食に行くことにした。
時間が遅くなったから近場がいいよね」とママ。
「地下でない所で食べようよ」と長男孫。
そこで、ショッピングモールの2階にあるイタリアンレストランに決めた。


3階からみたイタリアンレストラン

店に入りテーブルに座ると、店員が「チャニーズ?」と聞く。
長男が「ジャパニーズ」と答えると、日本語が話せる店員が注文に来た。
いろいろの国の人たちが来ていた。
日本人のグループもいるらしい。
急に大きな笑い声を発していた。
でいろいろなピザを頼み、シェアして食べた。
食べながら、1月に行ったイタリア・ソレントで食べたピザの味が急に思い出された。
長い大きなピザだった。
さすがに本場と感心する美味しさだった。
(その時の記事は「神々の国ギリシャ そしてイタリア再び⑨ ~ソレント半島~」)


釜焼き



今夜の夕食は女房が奮発するつもりで計画していた。
この日は息子シンガポールにいる。
 (息子は年がら年中あちこちに出張していて留守が多いのだった。)
全員揃った楽しい夕食になるだろう。
ママが友達から聞いたという中華レストランに出かける予定だ。

さて、夕食まで近くを散策でもしようか。
皆で店を後にした。

<続く>


2013年8月1日木曜日

アンコール遺跡⑧ ~アンコール・トムのその前に~


   旅先から絵手紙を出している。

   最初のきっかけは、以前にローマを訪れた時のことだった。
   ローマでの滞在中、街中のデモのためにホテルに足止めとなっていた夕暮れ、
   ホテルの窓から差し込む夕日があまりにも美しく感動的だった。
   これを日本の息子たちにも伝えたい・・・。
   絵手紙に描いて送ったのがはじまりだった。

   その後、旅先から知人や孫、それに自分にも絵手紙を出すようになった。


【4日目】 2013年7月23日朝 =絵手紙と朝の出来事=

旅の日程では、アンコール・ワットの名物“サンライズ”を見ることになっていた。
少し疲労気味だし、雨季で日の出はほぼ期待できないだろうから、参加しないこととして、
現地ガイドに前の日に断っておいた。
ホテルの部屋で絵手紙を描く心積もりだった。


アンコール・ワット1

アンコール・ワット2

アンコール・ワット3

アンコール・ワット4

アンコール・ワット5

アプサラ



タイムアップ、
今回は7枚しか描く時間がなかった。

最近、どこに行ってもホテルでは切手を扱わない。
今回もホテルに切手はなかった。
シェムリアップでただ1軒の郵便局に行かないと手に入らないという。


シェムリアップでは郵便の配達もないそうだ。
届いた郵便は、連絡を受けて郵便局へ受け取りに行くシステムとなっている。
 (後日情報:シェムリアップだけでなく、カンボジアでは配達サービスが機能不全らしい。)

郵便局に行く時間がなかったので、

現地ガイドにチップと一緒に渡して投函してもらうことにした。

シェムリアップの滞在も残すところ今日1日である。
夕方には日本に向けて出国する。
絵手紙の投函を現地ガイドに頼もうと、早めに1階ロビーに降りた。

昨夜、タイから観光客500人が押し寄せ、このホテルに宿泊していた。

ホテルの部屋数は200程だという。
どうやって泊ったのか、、、不思議な思いがした。
その人たちが何組かのグループに分かれて観光にでかけるというので、
現地ガイドや案内人がロビーで人集めをしている。

その様子は凄まじいばかりだ。
そこにいたタイ人にはマナーも何もなかった。


ロビーの喧騒、ガイドが奮闘。

拡声器で呼びかけていた。
しかし、なかなか届かない、、、。
ロビーの静かな一角

優雅に音楽の演奏も。

ツアー参加者の中の1人が、昨日から熱を出して部屋に残っているという。
帰国の日なので、本人さえよかったら、「病院に一緒にいってあげてもいい」と伝えるように、
ガイドに話してみた。
同じ職場の仲間4人組で、毎月預金をして今回初めての海外旅行だといっていた。
幸いにも熱が下がって回復し観光には参加しできる、との返事だった。



ホテルのレセプション

ロビーもずいぶん落ち着いた。

<続く>

2013年2月3日日曜日

神々の国ギリシャ そしてイタリア再び(番外編②)


【番外編・②】 ~旅の絵手紙 お土産 編~


旅先で絵手紙をかいた。

ギリシャのアテネで投函した絵手紙が、どうやら行方不明になっているようだ。
中国・蘇州から出したものが届かないこともあった。



1/14 アテネ
パルテノン神殿の絵手紙
アテネで投函したが届かなかった。
帰国後に再度描いた。
 旅の様子は、「神々の国ギリシャ そしてイタリア再び②」 に紹介。


1/15 
天空の修道院群「メテオラ」
007にも登場した。
投函前に写真に撮ることを思いつく。

メテオラは、「神々の国ギリシャ そしてイタリア再び③



メテオラの絵手紙は
デルフィで投函。これは届いた。


1/16 デルフィ
アポロン神殿

デルフィは、「神々の国ギリシャ そしてイタリア再び④

アポロン神殿から上に登っていく様子
上には円形劇場や競技場がある。
古代文化にふれた。



1/16~17 アドリア海を往く。
ギリシャ・パドラス港→イタリア・バーリへ
大型客船での船旅。

アドリア海クルーズは、「神々の国ギリシャ そしてイタリア再び⑤

1/17 アルベロベッロ
とんがり屋根のトゥルッリを描く。

アルベロベッロは、「神々の国ギリシャ そしてイタリア再び⑥


1/17 マテーラ
洞窟住居の街サッシ地区
しばらく滞在して絵を描いていたい、、。
そんな街だった。

マテーラは、「神々の国ギリシャ そしてイタリア再び⑥

1/18 ナポリ
車窓から駆け足で街を巡った。
ナポリの港を描いた。
街を歩いてみたかった、、。

車窓のナポリとゲーテは、「神々の国ギリシャ そしてイタリア再び⑦

1/18 ポンペイ
背後のベスビオ火山とともに描く。

ポンペイは、「神々の国ギリシャ そしてイタリア再び⑧

1/18 アマルフィ
海に向かって山肌の街が見える。

アマルフィ海岸は、「神々の国ギリシャ そしてイタリア再び⑨


アフロディテのマーブル像は7200円ほど。
ポンペイで買ったカメオは
この道70年、90歳の職人「ジョゼッペさん」が彫っていた。
その「手」に感動した相棒が購入。

アマルフィ海岸・ポジターノで買った素焼きの壁掛け

トランジットで暫し訪れたローマ
ローマ三越で購入したボールペン

2013年1月30日水曜日

神々の国ギリシャ そしてイタリア再び⑥ ~アルベロベッロとマテーラ~


【5日目】 2013年1月17日 =「トゥルッリ」の街と洞窟住居「サッシ」の街=


1泊の船旅だった。

フェリーはイタリアのバーリに着いた。
下船して大地を踏むとほっとする。
乗船客は迎えのバスに移って埠頭を離れていく。

ナポリから観光バスが迎えに来ていた。
イタリア人の運転手はギリシャ人と違って陽気だ。

ギリシャでのエピソード。
見学が予定より早く終わり全員がバスに戻った。
添乗員がバスの窓ガラス越しに運転手を呼んだが、
「約束の時間ではない」と添乗員にクレームを付けていたのを目撃した。
万事このような調子で融通が利かず頑としていた。
何だかチップを渡す気になれなかった。

フェリーから続々と下船する車。
フェリーが吐き出しているかのよう。

バスからバーリ港を見る

今日は、バーリ→アルベロベッロ→マテーラ→ナポリ(泊)と進む予定だ。





バーリ港に着いた時は薄日が射していた。
冬の天気は変わりやすく、アルベロベッロに到着する頃には雨になっていた。
途中の畑の中にとんがり屋根の小屋が崩れかかったまま農作業用に使われていた。
見るからに観光地らしい新しいものもあった。

畑の中のとんがり屋根

バスを降りて見学する時、傘をスーツケースに忘れたのか手元になかった。
添乗員がバスの運転手から傘を借りてくれた。
見学が終わって返す時に、お礼に日本から持ってきた「針なしホッチキス」をあげた。
運転手よりも添乗員が喜んでいた。

雨の中のアルベロベッロ散策

小雨の中でアルベロベッロの見学がはじまった。

街外れの駐車場から少し歩くと「トゥルッリ」が姿を現した。
円錐形の石積みの屋根と白い壁の家だ。
単数形は「トゥルッロ」というそう。
童話の世界に迷い込んだような街並は世界遺産である。
静かな住宅街だった。
きっと夏の真っ青な空が似合うのだろう。(↓こんなイメージ↓)




アルベロベッロ(Alberobello)は「美しい木」という意味らしい。
この土地の中世の名はラテン語「Sylva arboris belli」、「戦いの木の森」だそう。
ノルマン王朝時代(1066~1154年)に最古の記述が残っているという。

11世紀の南イタリアはノルマン人による征服が始まっている。
事の起こりは11世紀初期、プーリアの有力者たちがガルガノの地でノルマンの騎士と出会い、
一つの話を持ちかけた。
「プーリアの地をビザンチン支配とイスラムの脅威から救い、後にこの地を治めないか」と。

中世の地中海世界はイスラム勢(サラセン人)の海賊行為や侵略が横行していた。
その行為は何百年も続いており、11世紀のシチリアはイスラムの支配下になっていた。
当時のプーリアはビザンチン帝国支配下であったが、東の脅威から領地を守ることに必死で
地中海世界の南イタリアにまで手が回らず何の対抗策も講じなかった。
イスラム勢への自治防衛としてイタリアの海岸線には多数の「サラセンの塔」が建てられ
今も残っている。
海上からの襲撃を見張り、少しでも逃げる時間を稼ぐのが精一杯だったそうだ。

このような緊迫に始終晒され南イタリアは疲弊していた。
そこでノルマンの騎士に提案を持ちかけたのである。
11世紀半ばにはノルマン人による南イタリアの制覇が一段完了しノルマン人の統治が始まった。

アルベロベッロはアドリア海の海岸から20キロ程しか離れていない。
ビザンチン帝国やイスラムとの戦いの舞台になったのかもしれない。
もっとも15世紀頃までは森林だったようだが、、、。
近年の研究では「Silva Alborelli」という山の名前であって、戦争は関係ないというのが
主流のようだ。
実際にオークの木が生い茂る森だったそうだ。

アルベロベッロの街の歴史は14~15世紀に始まる。
当時はナポリ王国の統治下で、スペインのアラゴン王家が支配していた。
領内の土地を開拓し入植するには王の許可と納税の義務が課された。

この辺りの領主(地主)はアックアヴィーヴァ伯爵家であった。
未開の地アルベロベッロの開拓を始めるが王家に従うつもりはない。
つまり、入植の許可も納税もなしの秘策を考える。
農民を開拓と移住で集めるが、その住居はいつでも壊せる(解体できる)小屋のようなものに
限定させた。
視察が来る時には家を解体し、農民をどこかに追いやっておく。
そうして義務を逃れていたのである。
この農民の住居がトゥルッリの原型である。

農耕の民なのに何だか遊牧民族のような不安定さではないか。
そういえばモンゴルのゲルに形も似ている、、、。

農民を疲弊させるアックアヴィーヴァの悪政も1797年に終わる。
当時の支配はブルボン王家に変わっている。
プーリアを訪れたブルボンの王フェルディナンド4世に住民が直訴した。
以後、アルベロベッロは王の直轄地となり、
壊さなくていいトゥルッリやモルタルを使った建築物ができるようになった。

トゥルッリ地区は2つある。
土産物屋が立ち並ぶモンティ地区と人々が暮らすアイア・ピッコラ地区。
今も1000を超えるトゥルッリがあるそうだ。
夏には観光客で賑わう街も真冬の今は静かだった。

トゥルッリの街を現地ガイドについて歩いて行く。
ガイドは、「日本の白川郷に行ったことがある」と話していた。
白川郷とアルベロベッロは姉妹都市だ。

1軒のトゥルッリの軒先に入り説明を始めた。
トゥルッリの構造を描いたA4の用紙を用意していたが、小さくて雑な手描きだった。
早口でどんどん説明していく。
冬の雨の中のこと、寒いのだろうか、、、。
先を急ぐような説明に熱意は全く感じられなかった。
もっとも一目見れば大方理解できるものだが、現地ならではの“ネタ”もなく残念だった。


寒いからか、
急ぎ調子で説明する現地ガイド

アルベロベッロ モンティ地区
撮影スポットより眺める

ということで、さらにトゥルッリについて少し付け加えることにする。

トゥルッロは「部屋一つ、屋根一つ」という意味らしい。
もともとは中近東辺りからきた形だともいうが定かではない。
白い外壁は毎年の春に塗り直す条例が出るそうだ。
そうして世界遺産の美観を保っているのだろう。

外壁と内壁の間には砂や石がつまっており、雨水はここを抜けて濾過され使用される。
白い壁は真夏の強い日差しをブロックし、内部はひんやりしているのだとか。
南欧には白い街がたくさんある。
土地の気候に合わせた住居の知恵がここにもあった。

さて、観光に戻ろう。
メインストリートは観光のシーズンオフでお土産店もほとんど扉を閉めていた。
雨降りで寒い天気のせいかもしれない。
現地ガイドは10分程で説明を終わり、後は1軒の土産物屋へ直行した。
ガイドの知り合いの店なのだろう。
主人と奥さん2人だけの小さな店で、品揃えも多くはなかった。
アルベロベッロのジオラマ、相棒はナフキンなどの雑貨を買っていた。

店に寄る目的の一つに「トイレを借りる」というのがある。

ここで用をたせということだった。
店のトイレは1つしかなく男女共用。
順番が来るまでに1時間も待った。

トイレを待つ間に切手を探した。
近くのタバコ屋に行ったが置いてなかった。
店に戻って主人に聞いてみるが言葉が通じない。
添乗員に仲介してもらった。
やはりないのだろう。
添乗員はタバコ屋に買いに行ってくれたようだ。
暫くすると、「ない」と戻ってきた。(当然だったけれど厚意には感謝)
バスに戻る途中で少し眩暈がしたと相棒に話した。


アルベロベッロのメインストリート
冬はシーズンオフ

マテーラに向かう。
こちらも世界遺産「洞窟住居」の街だ。
1時間程で到着した。

昼食の予約は1時45分とある。
レストランに入ったのは2時を過ぎていた。
予約の時間をオーバーしていたからだろう、食事が終らないうちから片付けられてしまう。
落ち着かない食事だった。
時間が押しているので仕方なかったのだろう。
相棒は以前にもこんなことがあったと言っていた。


昼食のソーセージも
慌ただしく、、、

レストランは洞窟住居地域にあった。

店を出て周りの洞窟住居を一通り観察した。
一軒一軒の作りや大きさが違う。
外壁も褪せ具合によって違う色になっている。


マテーラの洞窟住居
レストランの玄関前から

方角を変えて

マテーラについては全く知識がなかった。
洞窟住居を「サッソ」、住居群を複数形の「サッシ」という。
「サッソ」は「岩・岩壁」を意味する。
マテーラのサッソ地区は3つ。
中心の「チビタ」、「サッソ・カヴェオーソ」、「サッソ・バリサーノ」とある。
「サッシについて前もって調べておくべきだった」と反省した。

マテーラの歴史は相当古い。
グラヴィナ渓谷の向かい側ではムルジュッキアという旧石器時代の集落跡が発見されている。
マテーラ(Matera)の名前の由来も紀元前3世紀頃のギリシャ殖民都市にあるそうだ。
ターラント湾沿岸の「Metapontum」と「Heraclea」の住民がこの地に流れ着いたとある。
この2つの頭部分を合成して「Matera」となったとか。



8世紀にはイスラム勢の侵略から逃れてキリスト教の修道僧が住み着いた。
新石器時代からあったという洞窟を住居や聖堂にしたという。
聖堂の壁にはビザンチン様式のフレスコ画が描かれたとか。
洞窟の数は130にもなったそうだ。
その後洞窟の周りに農民が移り住むようになり街へと発展していった。

ゴート族、ロンゴバルト族、ビザンチン帝国、スペイン(ナポリ王国)、、、と支配者が変わる中で
破壊と再建を繰り返してきたそうだ。
16世紀のナポリ王国下では農業と商業が発展し、人口が7000人から12000人に急増したという。
ここに経済格差が生まれたそうだ。

富める人は高台に住み、貧しいものが洞窟住居に残った。
洞窟住居は整備も開発もされないままに取り残されていった。
そして、「イタリアで最も貧しい都市」と呼ばれるようになる。
マテーラ近郊の村に流刑になっていたカウロ・レーヴィによる「キリストはエボリに止りぬ」に
貧しい生活の現状が書かれている。



人口の急増は洞窟住居の居住環境を悪化させることとなった。
畜舎として使っていた採光も水環境も劣悪な洞窟を住居とせざるを得なくなったのだ。
家畜と一緒の洞窟もあり、衛生状態は極度に悪化し、乳幼児の死亡率は50%に達したという。
1950年、政府は居住を禁止し、サッシ地区の住民を強制的に移住させた。
ここに洞窟住居は廃墟となって放置された。

その後、洞窟住居の特異な景観や歴史的価値が見直され、1993年世界遺産に登録された。
現在も政府が復興を続けている。
サッシ地区の3割近くが修復を終え、博物館、土産屋、レストラン、ホテル等に使われていた。


独特の趣、サッシ地区

まだまだ修復途上のサッシ

洞窟住居「サッソ」内

サッソ内
当時のまま

1 時間ほど見学して歩く。
農家が使っていた住居(サッソ)を見学した。
当時の農作業の道具や生活用品が展示されていた。

全体を見渡せる岩場のテラスに出た。
映画のロケ地になったという。
夕闇がせまり、電気が点灯し始めた。
見ていて飽きなかった。
少し滞在して絵を描いていたいと思った。


灯りが点り始めた街

マテーラの中心街

今夜の宿泊地ナポリまで270キロを移動する。
ギリシャからのフェリーが遅れたために到着がずいぶんと遅くなった。



:::今日の絵手紙(アルベロベッロ、マテーラ):::





<続く>