2013年2月1日金曜日

神々の国ギリシャ そしてイタリア再び⑨ ~ソレント半島~


【6日目・その③】 2013年1月18日 =“世界で最も美しい”アマルフィ海岸をゆく=


ポンペイからアマルフィ海岸へと断崖の上を走り続けた。

ソレントを経由する道はSS145からSS163だ。




道幅が狭いのでポンペイで小型マイクロバス2台に分乗した。
出発してすぐ、車窓から崖下にソレント半島が見えた。
海岸線の崖にはリゾート地らしい風景が広がる。

ソレントの街が見えてきた。
切り立った崖の上に街が広がっていた。



ソレントの街
ナポリの方角
ヴェスヴィオ山が見える

ソレントでピザの昼食となった。

店は「PIZZERIA DA FRANCO」。
地元の人が気軽に使う店なのだろう。
入った時間が早かったので空いているかと思いきや、次第に地元の人々で混雑しだした。

ピザ職人は2人しかいない。
後はウエイトレスと会計を兼ねた中年女性が1人でホールを切り盛りしている。
完全に人出が足りていない。
ピザが出るのに時間がかかった。

ピザは、トマト、モッツァレーラ、きのこの3種類。
6人分が大きな長い1枚になって出てきた。
テーブルが6人掛けなのもそのためだろうかと思った。
「Pizza al metro(1mのピザ)」といって、この辺りソレント半島が発祥の長いピザだった。

ソレントの「Da Franco」
地元の人で賑わうピザ屋

名物「pizza al metro」
6人分、味は3種、さすがに美味
食べてみるととても美味しかった。
生地は薄めでさっくりと程良い硬さに焼かれていた。
薄めの味付けがトマトやきのこ、チーズの味をはっきりと際立たせていた。
さすがに本場だと感心した。
デザートのチョコレートも美味しかった。
コーラ缶のイラストが気に入り記念に持って帰ってきた。

駐車場までソレントの街を少し歩いた。
見知らぬ街の店先を眺めながら歩いていると、「遠くまで来た」という実感が湧いてくる。

こんなひと時は楽しい時間だ。

ナポリ湾岸のソレントからアマルフィ海岸にはすぐに通り抜けた。
山と海のせまった美しい風景が続く。
マイクロバス2台に添乗員は交互に乗車した。
案内役の添乗員がいないとバスの運転手が説明を始める。

断崖の上を疾走しながら、後ろを向いてはあちこち指を差す。
「太陽ガ美シイ」とか「カプリ島ノ先端ガ見エル」と説明する。
ナポリ人らしく愛嬌たっぷりであるがハラハラし通しだった。

カプリ島にさす光
神秘的な光景

暫く走ると道路幅が広くなり、山の崖に沿うような街が見えてきた。
「ポジターノ」だ。

アマルフィ海岸はソレントからサレルノにかけて断崖の美しい街が点在する。
「世界で最も美しい海岸」といわれ古代から貴族や著名人が別荘をかまえる地だった。
世界遺産の景勝は数々の映画の舞台にもなってきた。

中世の海洋都市として隆盛を極めたアマルフィの街々も20世紀半ばまでは貧しい漁村だった。
人気を取り戻す一つの契機はアメリカの小説家ジョン・スタインベックの寄稿文だ。
1953年にポジターノに滞在したスタインベックはポジターノをこう記した。

「Positano bites deep. 
  It is a dream place that isn’t quite real when you are there
  and becomes beckoningly real after you have gone.」

ポジターノが夢の楽園として深く突き刺さったようだ。
それからは数々のビッグスターたちがこの地を訪れ、ヴァカンスの名所として喧伝されていった。

アマルフィ海岸一帯の歴史も古い。
紀元前8世紀頃にはエトルリアの支配地となっていたようだ。
エトルリアはギリシャ語で「ティレニア」。
ティレニア海は「エトルリアの海」ということだ。
エトルリア人は海の民だった。



紀元前5世紀頃にはギリシャ人もこの地にやってきたようだ。
近海のガッリ諸島(li Galli)にはセイ・レーンが住み着いていたという伝説を残したとか。
(セイ・レーンは紀元前8世紀ホメロス「オデュッセイア」に記述されてる)
そのような場所であったからか長らく人は住み着かなかったようだ。

街の起源として伝わる歴史は4世紀頃と随分下ることとなる。
ローマの貴族かギリシャの民か不明だが、この地に辿り着き住み着いたという。
優れた航海・造船技術を活かし漁業や交易によって街を大きくしていったそうだ。
7世紀頃にはピサ、ヴェネツィア、ジェノヴァに先駆ける海洋都市となった。
海を舞台にイスラムの台頭するアフリカとも交易・交戦と渉りあったようである。

そんな「ポジターノ」にトイレ休憩をかねて立ち寄った。
街が絶壁にへばりつくように在る。
漁業と観光が主な産業であろう。
土産物屋は豊富で、カラフルな焼き物などが目を引く。
店内には色鮮やかな生活用品や雑貨が一杯に並べてあった。
記念に壁掛けを買った。



ポジターノの街を見下ろす

記念の壁掛け

「ポジターノ(Positano)」の名前の由来にはいくつもの説がある。
①ギリシャ語「Pas Tanaos」:傾斜した、岩がちな、という意味。
②ローマ時代の解放奴隷ポジディイ(Posidii)の地「Posidianum」から。
③「Posa Posa(置いてけ 置いてけ)」伝説:
  中世、海賊が街を襲撃し教会の聖母子像画を持ち帰ろうとしたら大嵐になった。
  その時「Posa! Posa!」という声を聴き、画を戻したら嵐は静まった。
④海の神ポセイドンが愛する妖精「パジテア(Pasitea)」にこの美しい地を贈ったという伝説。

④のような伝説は「アマルフィ」にもある。
アマルフィの名はギリシャの英雄ヘラクレスが愛した妖精の名に由来するという伝説である。
ヘラクレスの愛した妖精が突然亡くなってしまう。
彼女の死を嘆き悲しんだヘラクレスはこの世で最も美しい地に彼女を葬り、街を切り開いて妖精の名をつけたのだとか。
アマルフィにはこの他にも説がある。
土地の開祖が「メンフィ(Menfi)」の地を経由して辿り着き「Amenfi」と呼ばれた、というもの。

ギリシャの神々をも魅了したという伝説はこの景勝地にふさわしいのであろう。
名前の由来は意外と興味深いものだ。


束の間のポジターノの後は「エメラルドの洞窟」へ向かった。
海岸沿いを走ってすぐに到着した。
「コンカ・デイ・マリーニ」という小さな村にある。

この村は「アマルフィ海岸の真珠」とうたわれ、「イタリア人が選ぶイタリアで最も美しい村」の一つに選ばれたそうだ(200程の村が選出されているらしいが、、、)。
確かに素朴な美しい村だった。
地名の意味は「海の民」の「窪んだ土地、谷間」だそう。

エメラルドの洞窟は1932年に地元の漁師によって偶然に見つけられたという。
洞窟は崖の下にあり、海から入っていくことになる。
国道沿いにあるエレベーター塔から海に降り、そこから小船に乗って見学するらしい。

今回のツアーにはカプリ島の「青の洞窟」は入っていない。
アマルフィ海岸で海の洞窟を味わえると期待した。

しかし、、、「波が高くて入れない」ということだった。
上からは洞窟らしきものも全く見えない。
風景を写真におさめた。


「エメラルドの洞窟」付近の海
この日は波が高くて入れなかった

洞窟へ向かうエレベーター塔

数キロ先の「アマルフィ」へと向かう。
洞窟ツアーが中止となった分、アマルフィの街での自由時間が得られた。
予定変更が予想外に楽しい体験となることがある。
アマルフィでもそんな時間を堪能できた。
午後5時過ぎまで、ゆっくりと街を楽しんだ。



アマルフィの桟橋辺り

海岸通りから街を見る

まず、海岸通りとメイン通りの角にある「タバッキ(Tabacchi)」に入った。
切手があるかと聞くと、「この先に郵便局がある。そこで買える。」と教えてくれた。

郵便局に行くと「1ユーロ切手を2枚貼って投函しろ」という。
エアメールは85セントのはずなのに、、と不審気な顔をしていたら別の人が対応に出てきた。
「英語がわかるか?」という。
何回もやり取りを繰り返したが結局お互いに理解し合えなかった。
切手を10枚買って「有難う」と言って出てきた。

 =後でわかったことだが、1月1日からイタリア→日本は2ユーロに大幅値上げされたらしい
   アマルフィの郵便局員さんは間違っていなかった、、、。


アマルフィの街を散策した。
海岸から山に向けてメイン通りが貫いている。



メイン通りを少し行くとすぐ右手に「ドゥオーモ(アマルフィ大聖堂)」が現れた。


大聖堂はキリストの12使徒の1人でアマルフィの守護聖人アンドレアに献じた聖堂だ。
9世紀に建てられ、その後幾度となく建て増しや改修を繰り返してきた。
そのために様々な建築様式が混在している。
ビザンチン、イスラム、ゴシック、、、。
海に面した海洋国家の変遷がうかがえるようだ。

アマルフィのメイン通りは広くはない。
狭い道の両側に商店が軒を連ねている。
店は閉店の準備をし始めていた。
暮れていく午後の街をぶらぶらと歩いた。

商店が並ぶメイン通り

ファッションのお店

店のディスプレイ 小人の飾り

集合場所はドゥオーモ広場だった。
トイレを借りようと広場のバールに入ってエスプレッソを頼んだ。
1杯2ユーロ。
美味しいコーヒーだった。
トイレは白と青のタイル張りで清潔だった。

カウンターで相棒とコーヒーを飲んでいると、ツアーの女性4人と添乗員が一緒にやって来た。
エスプレッソをお勧めした。



ドゥオーモ広場のバール
エスプレッソが美味しかった

だんだんと街に灯りが点る

日はとっくに落ちていた。
海岸沿いの広場でマイクロバスが待っていた。
また断崖の道を通ってナポリに帰るようだ。


暗い夜道を結構なスピードで走っていく。
途中から行きとは別の道に入ったようだ。
山道を抜けていく。
峠にさしかかると積雪があった。


ナポリのホテルには夜8時前に到着した。
旅の最後の晩餐である。
レストランでは別のツアーが夕食をはじめていた。

夕食のパスタ

タコのトマト煮込み
テーブルの席は昨夜と同じようにと言われた。
2組のご夫婦と同席した。

1組は以前に北海道に住んでいたというご夫婦。
足の悪い奥さんと参加していた。
ツアー中にご主人が奥さんに手を貸すような姿を一度も見なかった。
同情を嫌うのかなと少々寄りつき難かったが最後に同席できてよかった。

もう1組は青森から参加しているご夫婦だった。
青森弁で活発に仕切るのが好きそうだった。
物怖じしない様子からも「元学校の教師では」と勝手に推測していた。
話してみると、
建築事務所を経営しているという。
(推測ははずれた、、、。)
青森の三内丸山古墳の近くにお住まいだそうだ。
3年前にはがんの手術で、胃、胆嚢や腸の一部を摘出していると言っていた。
ギリシャ旅行がしたくて、これまでに3回申し込んだそうだ。
3度目でやっと実現できたと喜んでいた。
青森から成田に来るのが大変だったと話していた。

今回のツアーには
9組の夫婦と、女性が12人、総勢30人が参加した。
男性同士での参加というのがないところが面白い。
明日は帰国の途に着く。

ナポリのホテルの部屋で




:::アマルフィ海岸の絵手紙:::



<続く>


0 件のコメント: