アンコール・ワットとアンコール・トムを見学した後、
やっとクメールの精神世界に少し触れることができたような気がする。
しかし、宗教がこれほどまでに深く関係しているとは、シェムリアップにきて初めて知った。
来てみないとわからないものだ。
これも旅の醍醐味の一つ。
【4日目】 2013年7月23日お昼 =昼食&アンコールのあれこれ=
【4日目】 2013年7月23日お昼 =昼食&アンコールのあれこれ=
アンコール・トム観光の後は昼食。
バスで田園風景の中を走ってどこかのホテルに到着した。
ホテルのレストランで飲茶だった。
落ち着いた色彩のアジアンテイスト薫る建物だった。
落ち着いた色彩のアジアンテイスト薫る建物だった。
昼食をとったホテルのレストラン |
レストラン入口 |
レストランの店内 中華ダイニングだけに円卓 |
スープ |
焼きそば |
飲茶その1 |
飲茶その2 |
ごま団子 |
中華デザート |
食後のティータイム代わり(?)に、ここで少々ブレイク・タイム。
アンコールの地名や歴史などについて少し書いてみようと思う。
勿論受け売りである。
勿論受け売りである。
【アンコール遺跡と豆知識編】
6世紀 真臘(シンロウ、クメール語:チャンラ)勃興 (カンボジア起源とされる)
7世紀 真臘が扶南を滅ぼし、クメール族の国を建国 (その後分裂や統合を繰り返す)
=時の王は、イシャーヤヴァルマン1世
802年 ジャヤーヴァルマン2世がクーレン山で神王として即位し、建国を宣言
アンコール朝(クメール朝)が始まる
9世紀末 ヤショーヴァルマン1世がアンコールに新都城「ヤショーダラプラ」を築く
12世紀 スールヤヴァルマン2世が「アンコールワット」を建造
13世紀 ジャヤーヴァルマン7世が新王都「アンコールトム」を築き、最盛期をむかえる
・・・・・ジャヤーヴァルマン7世の死後、アンコール朝は衰退の道へ・・・・・
1431年 シャム(アユタヤ朝)の侵攻により、首都アンコール陥落
アンコール朝歴代王26人(ヴァルマン称号の王)とその治世をまとめる。
*( )内の年は在位期間を示す
*ヴァルマンとは、「守護者」「庇護者」の意味
(1)ジャヤーヴァルマン2世(802~834年)
クーレン山(プノン・クーレン)で即位し、アンコール朝が始まる。
ロリュオス地方を頻繁に訪問、晩年はロリュオスで暮らした。
(2)ジャヤーヴァルマン3世(834~877年)=(1)の息子
(3)インドラヴァルマン1世(877~889年)=(1)の重臣の孫?
ロリュオスの地に王都「ハリハラーラヤ」を造営(ロリュオス遺跡)
*ハリハラとは、シヴァとヴィシュヌの合体神
879年、プリア・コー建立
881年、中心寺院バコン建立
大貯水池「インドラタターカ」造営
*灌漑事業に力を入れ生産力を高めて王朝の基盤をつくった賢王
(4)ヤショーヴァルマン1世(889~910年頃)=(3)の息子
893年、ロレイ建立
*ロレイを父母のために建立した後にアンコールへ
アンコールに遷都、新都城「ヤショーダラプラ」を造営
900年頃、プノン・バケン建立
プノン・クロム建立
大貯水池「東バライ」造営
*善政を行った父王を見習い東バライをつくった。
910年、ライ病で死去
(5)ハルシャヴァルマン1世(910~922年頃)=(4)の息子
921年、プラサット・クラバン建立
(6)イーシャナヴァルマン1世(922~928年)=(4)の息子
(7)ジャヤーヴァルマン4世(928~942年)=アンコール北東にある「コ・ケー」地方の有力者
コ・ケーで即位、かの地に遷都
(8)ハルシャヴァルマン2世(942~944年)=(7)の息子
(9)ラージェンドラヴァルマン2世(944~968年)
首都を再びアンコールに移す
952年、東メボン建立
961年、プレ・ループ建立
967年、バンテアイ・スレイ着工
ピミアナカス建造
バンテアイ・クデイ建立
・・・・プラサット・クラバン、東メボン、プレ・ループ、バンテアイ・スレイは
「アンコール遺跡③」を。・・・・
バンテアイ・スレイ完成
1000年、タ・ケウ建設中に死去
(11)ウダヤーディジャヴァルマン1世(1001~1002年)=(10)の義兄
(12)ジャヤヴィーラヴァルマン(1002~1010年)
(13)スールヤヴァルマン1世(1011~1050年)
ピミアナカス再建
クレアン小寺院群建立
貯水池、西バライ開掘
大プリア・カーン建立(東部地方)
プリア・ヴィヘヤ建立(北部地方)
プノン・チソール建立(南部地方)
ロップリー(現タイ領土)まで領土拡大
(14)ウダヤーディジャヴァルマン2世(1050~1066年)
バプーオン建立
西バライ造営
西メボン建立
(15)ハルシャヴァルマン3世(1066~1080年)=(14)の兄弟
(16)ジャヤーヴァルマン6世(1080~1107年)=ピマーイ地方の王家出身
ベン・メリア建設開始
(17)ダラニンドラヴァルマン1世(1107~1113年)=(16)の兄弟
(18)スールヤヴァルマン2世(1113~1150年)=(16)(17)の甥
アンコール・ワット建立
ピマーイ建立(東北タイ地方)
1145~1149年、チャンパ王国支配
(19)ヤショーヴァルマン2世(1150~1165年)
(20)トリブヴァナーディチャヴァルマン(1165~1177年)
1177年、チャンパ軍によりアンコール占領
(21)ジャヤーヴァルマン7世(1181~1220年)=最初の仏教信仰王
1190年、アンコール奪還
1190~1220年、チャンパ王国を支配・併合、マレー半島へ領土拡大
アンコール朝の最盛期
都城「アンコール・トム」造営、バイヨン、象のテラス、ライ王のテラス、建立
1186年、タ・プローム建立
1191年、プリア・カン建立
12世紀末、バンテアイ・クデイ建立(仏教様式に再建)
バライ造営、ニャック・ポアン建立
タ・ソム、バンテアイ・チュマール、建立
102の病院、121の宿駅をつくった
・・・・アンコール・トム、バイヨン、象のテラス、ライ王のテラスは
「アンコール遺跡⑨」を。・・・・
(23)ジャヤーヴァルマン8世(1243~1295年)
シャム、元からの侵攻、1285年、1292年、元に朝貢
「廃仏」がはじまる
バイヨンをはじめ仏教寺院がヒンドゥー教に改宗される
(24)シュリーンドラヴァルマン(1295~1307年)
(25)シュリーンドラジャヤーヴァルマン(1307~1327年)=仏教徒
マンガラールタ建立
(26)ジャヤーヴァルマン9世(1307~1353年)
・・・・・その後、ヴァルマンの称号が廃止される・・・・・
1431年、シャム軍にアンコールを占拠され、アンコール朝終焉
次に言語。
クメール語とカンボジア語は同じ。
7世紀の真臘ではインド文化の影響が大きく、サンスクリット文字(古代インド)を使用。
クメール文字も使われ始めていた。
アンコール朝では、王朝が徐々に衰退していく14世紀までサンスクリット語を使い続けた。
碑文などによると、クメール語とサンスクリット語が半々位で使われていたようである。
地名の由来など
◆アンコール<Angkor>
=サンスクリット語の Nagara から出た言葉で、音がカンボジア風に変化した。
Nagara(ナーガラ) → Nokor(ノーコー) → Ongkor(オンコー) → Angkor(アンコー)。
Nagara = Naga(蛇) と ra(居る) =蛇の住むところ→蛇王のいる国。
「竜宮」と意訳できるともある。
一方、Nagara(ナガラ)は、「都市・城市」、「王家の都」の意味もある。
そういえば、この遺跡巡りでも数々の「ナーガ」をみた。
先ほど、アンコール・トムを出た時も橋の欄干で神々と阿修羅が曳いていた(乳海攪拌)。
アンコール・トム南大門のナーガ、再登場。 |
◆アンコール・ワット<Angkor Wat(Vat)>
=ワットは、寺院の意味。
ここでは「王室寺院」。
他にも、「都の寺院」、「寺院町」など。
◆アンコール・トム<Angkor Thom>
=トムは、大きいという意味。
ここでは「大王城」。
一般的には、「大きい街」、「大きい都市」など。
◆アンコール・トムのバイヨン<Bayon>
=クメール語では「バヨン」の発音に近い。
「バ」は美しい、「ヨン」は塔、という意味=「美しい塔」。
解説書では「納骨堂」であると書いている。
◆シェムリアップ<Siem・Reap>
=直訳すると、「シャム人(タイ人)敗戦の地」
◆カンボジア<Cambodia>
=カンボジア語では、「カンプチャ<Kampuchea>」という。
正式名称は、「カンボジア王国<Reach Ana Pak Kampuchea>」。
カンプは、建国者インドのバラモン僧「カンプー」のこと。
チャは、その子孫を表す。
カンプチャは、「カンプーの子孫(の国)」。
建国神話には、カンプー(シヴァ神の婿で西の国の王子)がナーガの娘と結婚し、
カンボジアの祖となった、という話がある。
もう一つ、
カンボジア=「カンブ王の国」を意味するともいわれる。
1500年頃この国を訪れたポルトガル人が、
王の名「Kambu カンボ」に、地名を表す「ia イアー(~の国)」をつけて、
「カンボジア」とヨーロッパに紹介した、といわれている。
◆カンボジアの首都 プノンペン<Phnom・Penh>
=プノンは「丘」の意味、「ペン」は信心深い女性の名前で、ペン夫人。
「ペン夫人の丘」ということになる。
次は、「ナーガ Naga」について。
「ナーガ」は、インド土着の蛇信仰から形成された蛇神。
その蛇神崇拝は、すでにインダス文明において存在したと推測されている。
脱皮・再生、多産、の生態から「不老不死」「子孫繁栄」の神だとされる。
脱皮・再生、多産、の生態から「不老不死」「子孫繁栄」の神だとされる。
ナーガはヒンドゥー教の神名。
仏教では竜。
中国の竜とは異なり、姿の源はインドコブラ。
カンボジアではネアークと呼ばれている。
カンボジアではネアークと呼ばれている。
ナーガは蛇神一族の総称で、一族は地底界パーラータに住むとされる。
仏教では竜の居所は竜宮。
ヴァースキやその他の蛇王(竜王)がその世界を統治している。
たくさんの竜王がいる。
・天地創造時(乳海攪拌)に綱になったのは、「ヴァースキ竜王」
・修行中の仏陀を、自らの体を盾として雨や風から守ったのは、「ムチャリンダ竜王」
・ヴィシュヌ神の寝床となっているのは、「アナンタ(シューシャ)竜王」
・干ばつを起こして、古代神インドラ(帝釈天)に退治されたのは、「ヴリトラ竜王」
・水を毒にして、クリシュナ(ヴィシュヌ神の化身)に退治されたのは、「カーリヤ竜王」
・仏陀誕生の時、聖水を注いで灌頂したのは、「ナンダ竜王」と「ウパナンダ竜王」
・・・・・断食を止め麓へ下りた仏陀に粥を差し出した女性スジャータは竜王の姫。
神話、建国神話や王族の伝説にはナーガが深くかかわっている。
ナーガと建国神話
東南アジアの国や王族の起源には、「ナーガとの結婚」というのが多く存在する。
・仏陀誕生の時、聖水を注いで灌頂したのは、「ナンダ竜王」と「ウパナンダ竜王」
・・・・・断食を止め麓へ下りた仏陀に粥を差し出した女性スジャータは竜王の姫。
神話、建国神話や王族の伝説にはナーガが深くかかわっている。
ナーガと建国神話
東南アジアの国や王族の起源には、「ナーガとの結婚」というのが多く存在する。
扶南王国の創建神話、その伝説では、
カウンディンヤ(インド北西部の有力氏族)というインド人バラモンがこの地に渡来した。
この地を統治する土侯はナーガ一族。
カウンディンヤは、ナーガ竜王の姫ソーマ(柳葉)と結婚し、扶南王国の初代王となった。
前出のカンボジア国名の由来は同様の伝説である。
真臘・アンコール王朝の創建神話も同じような伝説だ。
王朝の起源を、初代の王(プラ・トン)とナーガ族の王(プション王)の姫との結婚に求めている。
プラ・トンはアリアデシャの地からやってきてトロクの地に着いた。
ここはナーガ族のバトバダル(バーラータ)とつながっている。
プラ・トンはナーガのプション王の姫と結婚し、ナーガの力を受けてトロクを支配し国をつくった。
この国は神の恩恵によって拡大し、大きな国となっていった。
この伝説には後がある。
初代王となったプラ・トンは、岳父であるナーガのプション王を過って殺してしまい、
その岳父の血を身体に浴びた。
殺した罪の罰として、プラ・トンはこの返り血によってライ病に罹ってしまうのである。
そして、「ライ王」といわれた、という。
この伝説から、アンコール・トムのライ王のテラスにある像は、「建国の祖」プラ・トンであると信じられている。
アンコールの遺跡には夥しい数のナーガとその化身がみられる。
そこには、「土着のナーガからその地を治める許しを得る」という神話の構図があるのだ。
アンコールの地名が、「ナーガの国」というのもわかるような気がしてくる。
アンコールの建造物は、
国民の母たるナーガ、その主権を視覚的に宣言している、と分析されている。
ピミアナカス、かつての天上の宮殿に残る伝説も、この建国神話が基底にある。
王宮の中に須弥山をつくり、王は夜毎にそこに宿るナーガの下に臥す。
毎夜毎夜同衾し、始祖王がナーガの姫と行った婚姻(初夜)を更新しているのだという。
では、この辺りで豆知識を終わろう。
<続く>
カウンディンヤ(インド北西部の有力氏族)というインド人バラモンがこの地に渡来した。
この地を統治する土侯はナーガ一族。
カウンディンヤは、ナーガ竜王の姫ソーマ(柳葉)と結婚し、扶南王国の初代王となった。
前出のカンボジア国名の由来は同様の伝説である。
真臘・アンコール王朝の創建神話も同じような伝説だ。
王朝の起源を、初代の王(プラ・トン)とナーガ族の王(プション王)の姫との結婚に求めている。
プラ・トンはアリアデシャの地からやってきてトロクの地に着いた。
ここはナーガ族のバトバダル(バーラータ)とつながっている。
プラ・トンはナーガのプション王の姫と結婚し、ナーガの力を受けてトロクを支配し国をつくった。
この国は神の恩恵によって拡大し、大きな国となっていった。
この伝説には後がある。
初代王となったプラ・トンは、岳父であるナーガのプション王を過って殺してしまい、
その岳父の血を身体に浴びた。
殺した罪の罰として、プラ・トンはこの返り血によってライ病に罹ってしまうのである。
そして、「ライ王」といわれた、という。
この伝説から、アンコール・トムのライ王のテラスにある像は、「建国の祖」プラ・トンであると信じられている。
アンコールの遺跡には夥しい数のナーガとその化身がみられる。
そこには、「土着のナーガからその地を治める許しを得る」という神話の構図があるのだ。
アンコールの地名が、「ナーガの国」というのもわかるような気がしてくる。
アンコールの建造物は、
国民の母たるナーガ、その主権を視覚的に宣言している、と分析されている。
ピミアナカス、かつての天上の宮殿に残る伝説も、この建国神話が基底にある。
王宮の中に須弥山をつくり、王は夜毎にそこに宿るナーガの下に臥す。
毎夜毎夜同衾し、始祖王がナーガの姫と行った婚姻(初夜)を更新しているのだという。
では、この辺りで豆知識を終わろう。
<続く>
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