2013年8月1日木曜日

アンコール遺跡⑦ ~アンコール・ワット~


長い間アンコール・ワットに行きたいと思い続けてきた訳ではない。

6月のある日、インターネットで偶然格安のツアーを見つけた。
アンコール遺跡周辺だけのツアー内容が気に入ったので行くことに決めた。

決めてから、アンコール遺跡についてのガイドブックや本を読み始めた。
読み進んでいく内にアンコール遺跡群へのイメージが大きく膨らんでいった。
宗教とエロス、、、子供たちや友人らに話すことが何となく憚れた。


・・・そういえば、とまた回想。
   1月に行った南イタリアのポンペイ遺跡(79年の噴火で時が止まった街)でも春画の壁画や
   売春宿の表示が街のいたるところにあるのだが、何となくカラリと陽気さがあった。
   春画は家の悪魔除けだったそうで、宗教的な粘質性を感じないからだろうか、、、。
   (ポンペイ遺跡の様子は「神々の国ギリシャ そしてイタリア再び⑧~ポンペイ~」)

アンコール・ワットに戻る。
イメージの膨らみと同時に遺跡の紀行文や学術書も数多く出版されていることが分かった。
自分なりの「アンコール・ワット」を綴ることにする。


【3日目】 2013年7月22日午後 =いざ、魅惑のアンコール・ワットへ=

ベン・メリアから戻るバスでは眠ってしまった。
目を覚ましたら、バスは昼食をとるシェムリアップのレストランに到着していた。

滞在しているホテルの隣のレストランだった。
ツアーの工程表には「フレンチ」と書いてあった。
そういえば、カンボジアはフランス領だった歴史がある。
少々楽しみだ。

フランスパン、美味しい。
フランス保護下の歴史の力か。
スープ
前菜
メインはビーフ
ソースには醤油も
レストランから中庭をみる

食事が終わり、ホテルに帰って一休みした。

さて、いよいよアンコール・ワットだ。


今旅で訪れる遺跡は、順に
(1)ロレイ (2)プリア・コー (3)バコン (4)プラサット・クラバン (5)バンテアイ・スレイ 
(6)東メボン (7)プレ・ループ (8)ベン・メリア (9)アンコール・ワット (10)アンコール・トム
(11)バンテアイ・クデイ (12)タ・プローム  *下線は地図の枠外

アンコール・ワットの概略図
環濠を含んだ大きさは、東西1500m×南北1300m、環濠の幅は190m

= (9)アンコール・ワット =

旅も3日目の午後だ。
雨季だというのにスコールにあっていない。
入道雲の間から熱帯の夏の陽射しが照りつけた。


正門を抜けると濠の対岸にアンコール遺跡が視線に入ってきた。
余剰を考える間もなく、目の前に色彩のない黒い建物が現れた。

「アンコール・ワット」だ。
ガイドブックの写真そのままであった。


参道近くまでバスが入り、ツアー客を降ろすとバスは駐車場に走り去った。
ここで旅の記念写真を取った。



環濠の対岸に見えるアンコールワット
よく見る写真そのままだ。


アンコールワットには西塔門側から入場する。

190メートルの環濠を渡す参道陸橋を渡り終わると、3つの塔門と回廊を持つ周壁だ。
中央の一番大きな塔門が「王の門」西塔門である。
左右の門は兵士の門、左右の端の方には象の門もある。
この周壁は回廊式になっている。

参道は地盤沈下していて、半分はまだ修服されていなかった。

参道の半分は日本の上智大学の協力で修復済み。

西塔門に近づくとワットは姿を消す。

西塔門の前庭
塔の両脇はナーガが護っている。

西塔門から振り返ると大勢の観光客

西塔門から左手に回廊を行った所から。
環濠と先ほど渡ってきた参道が見えている。

西塔門のレリーフの説明があったが、ここでは理解できなかった。
西塔門を脇の出入り口から外に出てみた。
アンコールワットの中央祠堂が斜め右側に見えた。
かつては池だった所に下りて中央祠堂を“つまむ”記念写真を撮る。
観光地ではよくある“おなじみの構図”だ。
(ピサの斜塔を支えるように撮影する、など)
ガイドの知恵の見せどころだが、お遊びといったところだ。


王の塔門から左手の回廊を見る。
回廊に西日が差している。

門(と周壁)にも回廊がある。

塔門のレリーフ
デヴァターが客を出迎えているようだ。
この西塔門付近のどこかに、
「歯を見せてわらうデヴァター」がいるはずだ。

デヴァター、天女の浮き彫り

塔門の回廊から中央祠堂が見える。

アンコールワットでのおなじみのポーズらしい。
中央祠堂の尖塔をつまんでいるよう。

西塔門から中央祠堂が正面に見える。
参道の欄干はナーガ。
ここは前庭にあたり、参道の左右には経蔵と聖池がある。

参道を祠堂へ向かって進むと、
第一回廊に突き当たる。
参道の左右にある経蔵の一つ。
ベンメリアにもあった。

第一回廊には、正面からでなく回り込んで右側(南側)の回廊から入った。
近くに寺院があるのか、僧侶の読経が聞こえてくる。
よく聞くと拡声器から流れてくる。
機械からの音が蒸し暑さを誘うようだった。

アンコール・ワットは、ヒンドゥー教三最高神の中のヴィシュヌ神に捧げられた寺院で、

第18代王スールヤヴァルマン2世が1113年から30年余りの歳月をかけて建立した。
王自らの王廟でもあり、王を埋葬した墳墓であった。
王廟であるため西が正面なのである。
スールヤヴァルマン2世は、このためのモデルとして「ベン・メリア」をつくったともいわれる。

ここで、ヒンドゥー教の三最高神について再度。
   三神一体論にあり、
   最高神は、ブラフマー(創造の神)、ヴィシュヌ(維持の神)、シヴァ(破壊の神)である。
   どの神も4本の手を持ち、一見すると区別がつきにくいが、
   その持ち物や飾りに大きな違いがあり興味深い。
   ヴィシュヌ神は、「法螺貝」、「棍棒」、「円盤」、「蓮華」の4つの武器を持つ。
   維持を司る神の“武器”に“蓮華の花”とは意味深いものだ。

アンコール朝では、代々の王達は3つの信仰を推進してきた。
「山岳信仰」、「神王崇拝」、「ヒンドゥー教」、である。
そして、数多くの寺院を建造してきた。
寺院は、「須弥山(メルー山)」をイメージして造られた。
須弥山とは、教義の中での「世界の中心」である。
この寺院建設の集大成ともいわれたのが、アンコール・ワットである。
神王崇拝は数々の寺院でも見受けられた。
先王やその后は死後に神や女神となる。
先祖の菩提を弔う寺院は、そのまま神や女神を祀ったものとなるのだ。

さて、見学に戻ろう。

第一回廊の壁面には、神話の世界や王の物語が浮き彫りにされている。
神話、叙事詩、スールヤヴァルマン2世軍隊の行進などの物語のレリーフが
壁面いっぱいに刻まれている。
1階にあたる第一回廊は、神と死後に神となった王の壮大な物語であふれていた。

第一回廊の様子。
写真左手の壁(中央祠堂側)にレリーフ。
配置図を入れておこう。
西面 「ラーマーヤナ」 「マハーバーラタ」
南面 「偉大な王の歴史回廊」 「天国と地獄」
東面 「乳海攪拌」 「阿修羅に対するヴィシュヌ神の勝利」
北面 「バーナに対するクリシュナの勝利」 「神々の戦い」

レリーフはこんな感じだ。
スールヤヴァルマン2世の行軍
この部分の兵士はクメール人でなく先導する傭兵部隊のシャム兵士
脇見をしたり泣いていたりして行軍が乱れているのが面白い
一方クメール人の兵士はきりっと集中して描かれている

こちらは「天国と地獄」
3段になっていて、上段が天国、中段が現世、下段が地獄
下段の地獄では数珠繋ぎの罪人が逆さ吊りにされたり
様々な仕置きを受けている

踏み潰された罪人

数珠繋ぎの罪人が引っ張られ踏まれている
左の獄吏は大きな棍棒を振りかざしている

棍棒で打たれ、足にすがりつく罪人もいる

回廊に珍客が。
ここに住み着いている猿らしい。
アンコール・ワットは森の中にあるのだった。

アンコール・ワットに来るまでは、「乳海撹拌」がよくわからなかった。
レリーフを前に、ガイドの説明を聞きながら解説書を思い出していた。

ヒンドゥー教の天地創造の神話である。

  昔、活力を失った神々を甦らせるために、ヴィシュヌ神が知恵を授けて、
  神々と魔神・阿修羅が協力し「不老不死の霊薬(アムリタ)」を作ることになった。
  大海に薬草を入れて、撹拌棒として「マンダラ山」を用い、

  この山に竜王ヴァースキを巻きつけて曳き綱として神々と阿修羅で曳き合った。
  大海は攪拌され乳海となり、様々なものを生み出した。
  神酒、太陽、月、宝石、家畜、、、。
  ヴィシュヌ神の妃となったラクシュミーもここで生まれている。
  最後に、アムリタを入れた壺があらわれた。
  このアムリタを阿修羅が奪って逃げたが、ヴィシュヌ神が天女に変身して阿修羅をたぶらかし、
  アムリタを奪い返して神々に与えた、という神話である。

中央が軸のマンダラ山とヴィシュヌ神
マンダラ山を支えているのは大亀クールマ(ヴィシュヌの化身)
神々(右)と阿修羅(左)が左右に分かれて綱のヴァースキを曳く
上の方には大海から生まれたアプサラが

この神話のモチーフは様々な遺跡で多数みることができる。
アンコール・ワットの乳海攪拌のレリーフは50メートルに及ぶ大作だった。

第二回廊の方へ進むと、“日本人の落書き”の痕を見た。
この落書きは有名な話である。
落書きといっても、時は江戸時代のものだから相当古い。
その頃にはクメール王国は滅亡しており、アンコール・ワットは廃墟となっていた。
廃墟、過日の王都を日本人が訪れていたのだった。
今ではほとんど消されているが、第一回廊と第二回廊の間には12ヵ所あったという。
「森本」と読めないこともない。
森本右近太夫のことである。
寛永9年正月、西暦1632年のものだ。

森本右近太夫は、父の菩提を弔うため
祇園精舎を目指し、ここに辿り着いた。

「千里の海を越えてやってきた。」
「仏像を4体奉納した。」
などと書いてあった。

第二回廊は、デヴァター(女官、踊り子、天女)の像が多い。

一つとして同じ顔がなく、当時の宮廷の女官などがモデルになったと言われている。
建物の外壁にも浮き彫りがあった。


あらゆる所にデヴァターの像がある。
しかしそれは、全て中央祠堂もしくは参道に向けている。

様々な表情、ポーズのデヴァター。

第二回廊を出ると、第三回廊が目の前にそびえていた。
より天に近い造りになっていた。
第二回廊からは13メートル高い第三回廊へは約70度の急な階段があった。
(中央祠堂の全高さは約65メートル。)
今は修復中で登ることはできない。
ガイドの説明では、
昔は仏像が安置されていたが、今は何もなく吹き抜けになっている、とのことだった。


中央祠堂
第三回廊の基盤の上にそびえている。

祠堂の妻レリーフ
レリーフを取り巻いているのは大蛇ナーガだ

ピエール・ロティ著、「アンコール詣で」によると、
今から約100年前のアンコール・ワットは、天井に蝙蝠がビロードのようにぶら下がっていた。
床は蝙蝠の糞が堆積していて、つるつる滑ったとある。
近くに住む人たちが、祠堂内の仏様にお参りにきている、ともあった。


お布施をしてお参りした。



一回りして外に出たら雨が降りだした。

傘を出している間もなく、土砂降りになった。
バスに辿り着いた時は皆ずぶ濡れだった。

予定ではこの後に、「アプサラ」の舞踊を鑑賞しながらのディナーだった。
会場に行く前に一度ホテルに戻って着替えをすることになった。


午後730分からの開演だったが、会場に着いた時には既に始まっていた。
食事はバイキングだったが、ほとんど食べるものはなくなっていた。
ドリンクを注文したが届かなかった。
1時間の踊りが終わり、舞台に上がってアプサラの踊り子と記念写真を撮った。


  「アプサラ」について・・・
  アプサラは、9世紀頃に生まれたカンボジアの伝統的な宮廷舞踏である。
  「天女、天使」を意味し、アンコール遺跡のレリーフにもデヴァターとして数多く登場する。
  乳海攪拌で生まれたアプサラス(水の精)で、ラーマーヤナではアプサラーと呼ばれている。




アプサラの踊り子と。



<続く>


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